書に志を集めて一代に成就することを期するに如《し》かじと思っていた。五色の糸の乱れしは美しけれども、実用に供することは赤とか黄とかの一色に決し、ほかは皆切り捨つるに如《し》かずと思っていた。
従って、彼は、ターヘルアナトミアの翻訳に余念もなかった。彼は一日会して解し得るところは、家に帰ってただちに翻訳した。
が、良沢の志は遠大だった。彼の志は蘭学の大成にあった。ターヘルアナトミアのごときは、ほとんど眼中になかった。彼は、オランダのことごとくに通達し、彼《か》の国の書籍何にても読破したい大望を懐いていた。
最初、一、二年は、良沢と玄白との間に、なんら意見の扞格《かんかく》もなかった。が、彼らの力が進むに従って、二人はいつも同じような口争いを続けていた。
「このところの文意はよく分かり申した。いざ先へ進もうではござらぬか」
玄白は、常に先を急いでいた。が、良沢は、悠揚として落着いていた。
「いや、お待ちなされい。文意は通じても、語義が通じ申さぬ。およそ、語義が通じ申さないで、文意のみが通ずるは、当《あて》推量と申すものでござる」
良沢は、頑として動かなかった。
前へ
次へ
全34ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング