浮べて、そうした感じに堪えていた。
 老人の小吏は、磨ぎすました出刃を逆手《さかて》に持つと、獣の肉をでも割《さ》くように、死体の胸をずぶずぶと切り開いていった。まだ首が離れてから半刻と経っていない死体からは、出刃の切先の進むに連れて、かたまりかけている血がとろとろと滲み出た。
 胸が第一に切り割《さ》かれた。良沢も玄白も、ターヘルアナトミアの胸の絵図を開きながら、真っ赤に開かれていく死体の胸と、一心に見比べていた。
 それが、良沢と玄白とにとって、なんという不思議であっただろう。出刃の切っ先に切られていく骨の一つも、筋の一つも、肉の間に網のごとく走っている白い奇怪な線条も、白く浮き上っている脂肪も、びろびろと胸郭いっぱいに気味悪く広がっている肺も、左肺の下から覗いている真っ赤な桃の実のごとき心の臓も、ターヘルアナトミアの絵図と、一分一点の違いもなかった。
 良沢も玄白も他の四人も、深い感嘆のために、声も出なかった。
 続いて、腹が割《さ》かれた。そこに見|出《いだ》された胃、奇怪な形に蹲《うずくま》っている腸、胃の陰にかくれた名も知らぬ臓腑まで、オランダ図と寸分の違いもなかった。
 
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