老屠が、出刃を持つ手を止めると、良沢は、初めてわれに返ったように叫んだ。
「至極じゃ。至極じゃ。蘭書の絵図と、寸分の違いもござらぬ。和漢千載の諸説は、みな取るに足らぬ妄説と定《さだ》まり申した。医術はもはやオランダに止めを刺し申した」
「至極じゃ。至極じゃ!」
皆は、良沢の感激に声を合せた。
刑場からの帰途、春泰と良円とは、一足遅れたため、良沢と玄適と淳庵、玄白の四人|連《づれ》であった。四人は同じ感激に浸っていた。それは、玄妙不思議なオランダの医術に対する賛嘆の心であった。
刑場から六、七町の間、皆は黙々として銘々自分自身の感激に浸っていたが、浅草|田圃《たんぼ》に差しかかると、淳庵が感に堪えたようにいった。
「今日の実験、ただただ驚き入るのほかはないことでござる。かほどのことを、これまで心づかずに打ち過したかと思えば、この上もなき恥辱に存ずる。われわれ医をもって主君主君に仕えるものが、その術の基本とも申すべき人体の真形をも心得ず、今日まで一日一日とその業を務め申したかと思えば、面目もないことでござる。何とぞ、今日の実験に基づき、おおよそにも身体の真理をわきまえて医をいたせば
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