前野氏へも、なんとかいたして知らせたいものでござる」
そういったとき、玄白は自分自身、救われたような明るい気持になった。
「おお前野氏がいる! 前野氏のことを、とんと失念いたしていた。前野氏へは、是非一報いたさいで叶わぬことじゃ」
玄適が、すぐそれに応じた。が、他の者はあまり気が乗っているようでもなかった。淳庵はいいわけのようにいった。
「前野氏にも、知らせとうはござるが、前野氏の麹町の住居までは、よほどの道程でござる。もう、初更も過ぎているほどに、知らすべき便《たより》はござらぬ。前野氏には、この次の機《おり》もござろう」
玄白は、もう黙っていようかと思った。自分の心持だけは、これで済んでいる。前野を、是非とも明日の企てに与《あずか》らせねばならぬほどの義理も責任もないと思っていた。が、彼は自分の心の底に、良沢の来ないことを欣ぶような心が潜んでいることに気づいているだけに、そのまま黙っているのが疚《やま》しかった。
「いや知らすべき便《たより》がないとは、限り申さぬ。本石町の木戸|際《ぎわ》には、さだめし辻籠がいることでござろう。手紙を調《しつら》え、辻籠の者に置き捨てにいたさ
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