すれば、念がとどかぬことはござるまい」
玄白の考えは、時にとって名案だった。
「それは、天晴《あっぱれ》のお心付きじゃ」
一座の者は、皆それに賛成した。玄適が、すぐ手紙を書きにかかった。
玄白は、自分で良沢を呼びながら、一方それを悔いている心持が動いていないこともなかった。が、ふと自分の持っているターヘルアナトミアのことを考えると、また別な心持が動いた。彼は、その珍書を皆の前で披露するときの、得意な心持を考えた。ことに良沢の前で――いつもそれとなく気圧されているように思う良沢の前で、ターヘルアナトミアを開いて見せる自分の心持を考えてみた。
彼は、やっぱり良沢を呼んで、いいことをしたと思った。
四
三月四日の朝、玄白は寅の二つに近い頃、新大橋の藩邸を出て、浅草橋から蔵前を通って、広小路に出て、馬道から山谷町の出口の茶屋に着いたのは、春の引き明けの薄紫の空に、浅草寺《せんそうじ》の明け六つの鐘が、こうこうと鳴り渡っている頃であった。
茶屋の座敷に上って見ると、もう玄適と良沢とが、朝寒《あささむ》の部屋に火鉢を囲いながら向い合っていた。
麹町平河町に住ん
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