して、関東に下り、藩主越中守の指揮に従い、幕軍と協力して、敵に当るより外はないというのだった。
それに対して、政治奉行の小森九右衛門、山本主馬などが恭順論を主張した。彼らは天下の大勢を説き、順逆の名分を力説して、この際一日も早く朝威に帰順するのが得策であるというのであった。
恭順東下の議論は、二日にわたって決しなかった。そのうちに、鎮撫使の橋本少将、柳原侍従が、有栖川宮の先発として、京師を発したという知らせが早くも伝わった。
その知らせに接して、評定の人々は更に焦った。が、諸士の議論は、容易に一致しなかった。藩中第一の器量人といわれている家老の酒井孫八郎が、とうとうこんなことををいい出した。今、敵は眼前に迫っている。必死危急の場合である。小田原評定をやって、一刻をも緩《ゆる》うすべき時ではない。昨日今日の様子では、この上いくら評定を重ねても、皆が心から折れ合うことなどは望み得ない。その上恭順がよいか東下がよいか、そのいずれが本当に正しいかは、人間の力では分かるものではない。それよりも、いっそ東下と恭順との二つの籤《くじ》を作って、藩主定綱公以下を祭った神廟の前で引いてみよう、その
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