づくることを怖れていた。裁判は、あくまで自分の良識に依ることにし、人相はあくまで、参考に止めて置こうと考えていた。が、幸いな事に、良識と人相とは、ある程度一致していた。虫も殺さないような美人の顔の中にも、一点その残忍性をあらわす特徴などを、見つけるようになっていた。

 越前の場合は、毎日の裁判で見る多くの犯人を、実例として人相学の研究を積むのであるから、一年も経った頃には、その道で自得するところが多く、よほどの自信を持つようになって居た。
 その頃、彼は初めて白洲《しらす》に引きすえられていた盗賊の木鼠長吉《きねずみちょうきち》を見たのである。彼は、仲間《ちゅうげん》で木鼠ともむささび[#「むささび」に傍点]とも仇名《あだな》をとっていた。むささびが、梢《こずえ》から梢へ身を移す如く進退が敏捷《びんしょう》であったからである。
 調書で見ると白状している罪科は、十数件に余っている。窃盗が、十件あまりと、スリが五、六件である。が、一件の金額が十両以上のものはなかった。その頃の成文法及び慣習法に依ると、その人間の盗んだ金額が、総額がいくらに上ろうと、一件の金額が、十両に上らない場合は、死罪を免れることになっている。十両と云えば、戦争前の金額にすれば、千円近いのである。現在の金にすれば、十万円にも上るだろう。江戸の初には、一両で米が四石であった。十両で、四十石である。大岡越前時代でも、二十石位である。忠臣蔵の連中の中で、半分以上は七両五人扶持と云った人々である。七両十両などと云うのは、相当な武士の年俸である。ある足軽が、五両の金に困って死ぬとき、

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死んだらばたつた五両と云ふならむ
   生きてゐたらば二分もかすまい
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 と云う辞世の歌を作っている。もっとも、二分と云っても、その頃|吉原《よしわら》の一流のおいらん[#「おいらん」に傍点]の揚代が二分であった。だから、おいそれとは、誰もかしてくれないわけである。
 だから、十両と云うのは、大金である。むかしの苛酷な刑法が十両以上盗んだものは、斬《ざん》に処したわけである。尤《もっと》も、戦国時代には、一銭|斬《ぎ》りと云って、永楽銭一銭を盗むと斬ってしまったのである。しかし、むかしの刑法はまたのんきな所があり、なしくずしに盗めば、百両盗んでも命は無事であったのである。
 
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