史儒はこの役に死し、祖承訓は残兵を連れて遼陽に還ったが、明の朝廷へは、我軍大いに力戦して居た際に、朝鮮兵の一部隊が敵へ投降した為に戦利あらず退いた、とごまかして報告した。朝廷では、群臣をして評議せしめた。或者曰く、南方の水軍を集めて日本の虚を衝《つ》くべし。他は曰く、兵を朝鮮との国境に出して敵をして一歩も入らしむる勿《なか》れと。他は曰く講和するに如《し》かじと。議論は色々であるが何《いず》れとも決定しない。しかし朝鮮は必争の地であり、自衛上放棄する事は出来ない。今|能《よ》く朝鮮を回復する者があったら、銀一万両を賞し伯爵を授けようと懸賞募集を行った。悪くない賞与ではあるが、誰も自信がないと見えて応ずる者が無い。そこで今度は意見書を広く募った。その中で予選に当ったのが、程鵬起《ていほうき》が海軍をして日本を襲う策と、沈惟敬《ちんいけい》が遊説《ゆうぜい》をもって退かしめる計とである。前者は行われなかったが、海軍をもって日本を衝く説は良策であったに相違ない。当時朝鮮海峡に於ても日本の水軍は屡々《しばしば》朝鮮の水師に敗れ、なかなかの苦戦をして居る。今|若《も》し優秀強大な艦隊が朝鮮海峡に
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