制海権を握るならば、遠征の日本軍は後方との連絡を絶たれ、大敗したかも知れない。バルチック艦隊を日本海に撃滅して置かなかったなら、満洲に於ける日露の戦局はどうなったかわからないと同様である。朝鮮、明にとって惜しい事には、この海軍出動説はついに実現しなかった。一方の沈惟敬の説は直ちに採用されて、惟敬は遊撃将に任命された。この男はもと無頼漢であったが流れ流れて北京に来て居ったが、交友の中に嘗つて倭寇の為に擒《とりこ》にされ、久しく日本に住んで居た者があった。その友人から予々《かねがね》日本の事情を聴いて居た惟敬は、身を立つる好機至れりとして、遊説の役を買って出たのである。八月末、平壌の城北|乾福山《かんぷくざん》の麓に小西行長と会見した。何故行長が明の使と会見したかと云うと、行長は既に日本軍遠征をこれ以上に進める事も好まなかったからである。いい潮時さえあらば講和をなしたいと考えて居たからである。明使沈惟敬が来たのは、行長にとって歓迎する処であっただろう。そこで行長は明からの正式の講和使を遣わさんことを求め、五十日をもって期限とした。沈惟敬之を承諾して、標《しるし》を城北の山に樹《た》てて日朝
前へ 次へ
全29ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング