人その勇猛を恐れて、野人或は北胡と称して居たものである。清正はかくして朝鮮国境まで突破したわけだが、北進中の海岸で、ある日東海はるかに富士山を認め、馬より降り甲を脱いで拝したと云うが、まさか富士山ではあるまい。この情景は昔の絵草紙などに書いてある。しかし懸軍数百里望郷の情は、武将の心を傷《いた》ましむるものがあったであろう。清正の話では虎狩りが有名であるが、十文字槍の片穂を喰い取られたなぞは伝説である。清正ばかりでなく島津義弘や黒田長政なども虎狩りをやって居る。中には槍や刀でついに仕止めた話もあるが、清正が十文字槍で虎と一騎討ちをやった記録はない。自ら鉄砲で射止めた事はあるらしい。
 さて一方行長も七月半に大同江を渡って平壌を占領した。かくて、この年の暮頃の京城を中心とした日本軍の配置はほぼ次の如くである。既ち京城には、総大将宇喜多秀家を始め三奉行の増田長盛、石田三成、大谷吉継以下約二万の勢、平壌には、先鋒小西行長、宗義智、松浦鎮信以下一万八千の勢、牛峰《ぐうぼう》には、立花宗茂、高橋|統増《のぶます》、筑紫|広門《ひろかど》等四千の勢。開城には、小早川|隆景《たかかげ》、吉川《きっか
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