わ》広家、毛利元康以下二万の勢。其他占領した各処には、部将それぞれ守備を厳重にして居たのである。
於[#二]平壌[#一]行長敗退之事
日本軍襲撃の報を、朝鮮の政府が明第十三代の皇帝|神宗《しんそう》に逸早《いちはや》くも告げた事は前に述べたが如くである。明では最初この急報を信じて居なかったが、追々と琉球や福建|辺《あたり》からも諜報が飛んで来る。ついに朝鮮王は義州にまで落ちて来た。救援を求める使は、踵《きびす》を接して北京に至る有様である。あんまり朝鮮王の逃足が早いので、一明使は朝鮮王が、日本軍の先鋒を承って居るのではないかと疑ったが、王の顔色|憔悴《しょうすい》して居るのを見て疑を晴した程である。明朝|茲《ここ》に於て、遼陽《りょうよう》の一部将|祖承訓《そしょうくん》に兵三千を率いしめて義州に南下し、朝鮮の部将|史儒《しじゅ》以下の二千の兵と合して、七月十六日平壌を攻撃させた。平壌を守る小西行長、宗義智、松浦鎮信、黒田長政等之を迎えて撃破した。長政の部下後藤又兵衛基次が、金の二本菖浦の指物を朝風に翻えし、大身の槍を馬上に揮ったのはこの時である。
さて朝鮮の武将史儒はこの役に死し、祖承訓は残兵を連れて遼陽に還ったが、明の朝廷へは、我軍大いに力戦して居た際に、朝鮮兵の一部隊が敵へ投降した為に戦利あらず退いた、とごまかして報告した。朝廷では、群臣をして評議せしめた。或者曰く、南方の水軍を集めて日本の虚を衝《つ》くべし。他は曰く、兵を朝鮮との国境に出して敵をして一歩も入らしむる勿《なか》れと。他は曰く講和するに如《し》かじと。議論は色々であるが何《いず》れとも決定しない。しかし朝鮮は必争の地であり、自衛上放棄する事は出来ない。今|能《よ》く朝鮮を回復する者があったら、銀一万両を賞し伯爵を授けようと懸賞募集を行った。悪くない賞与ではあるが、誰も自信がないと見えて応ずる者が無い。そこで今度は意見書を広く募った。その中で予選に当ったのが、程鵬起《ていほうき》が海軍をして日本を襲う策と、沈惟敬《ちんいけい》が遊説《ゆうぜい》をもって退かしめる計とである。前者は行われなかったが、海軍をもって日本を衝く説は良策であったに相違ない。当時朝鮮海峡に於ても日本の水軍は屡々《しばしば》朝鮮の水師に敗れ、なかなかの苦戦をして居る。今|若《も》し優秀強大な艦隊が朝鮮海峡に
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