こうかい》君以下王妃|宮嬪《きゅうひん》数十人、李山海、柳成竜等百余人に護《まも》られて、遠く蒙塵《もうじん》する事になった。四月二十九日の午前二時、士民の哀号の声の中を西大門を出たのである。
行長、清正の二軍は、忠州に相会した後再び路を分って進み、五月二日の夕方に清正は南大門から、行長は東大門から京城に入城した。京城附近の漢江に清正行き着いた時、河幅三四町に及ぶが、橋が無いので渡れない。対岸を望むと船が多く繋《つな》いであるが、敵の伏勢が居ないとも限らない。清正|暫《しばら》く眺めて居たが、『鴎《かもめ》が浮んで居る処を見ると敵軍既に逃げたと覚える、誰か泳いで彼の船を漕ぎ来《きた》る者ぞ』と云った。従士曾根孫六進んで水に入り、一隻を漕ぎ還ったので、次々に船を拉《らっ》し来って全軍を渡す事が出来た。清正は更に開城を経た後大陸を横断して西海岸に出で、海汀倉《かいていそう》に大勝し長駆|豆満江《とまんこう》辺の会寧に至った。此処で先の臨海君順和君の二王子を虜《とりこ》にした。まだそれで満足しなかったと見えて兀良哈《おらんかい》征伐をやって居る。兀良哈は今の間島地方に住んで居る種族で、朝鮮人その勇猛を恐れて、野人或は北胡と称して居たものである。清正はかくして朝鮮国境まで突破したわけだが、北進中の海岸で、ある日東海はるかに富士山を認め、馬より降り甲を脱いで拝したと云うが、まさか富士山ではあるまい。この情景は昔の絵草紙などに書いてある。しかし懸軍数百里望郷の情は、武将の心を傷《いた》ましむるものがあったであろう。清正の話では虎狩りが有名であるが、十文字槍の片穂を喰い取られたなぞは伝説である。清正ばかりでなく島津義弘や黒田長政なども虎狩りをやって居る。中には槍や刀でついに仕止めた話もあるが、清正が十文字槍で虎と一騎討ちをやった記録はない。自ら鉄砲で射止めた事はあるらしい。
さて一方行長も七月半に大同江を渡って平壌を占領した。かくて、この年の暮頃の京城を中心とした日本軍の配置はほぼ次の如くである。既ち京城には、総大将宇喜多秀家を始め三奉行の増田長盛、石田三成、大谷吉継以下約二万の勢、平壌には、先鋒小西行長、宗義智、松浦鎮信以下一万八千の勢、牛峰《ぐうぼう》には、立花宗茂、高橋|統増《のぶます》、筑紫|広門《ひろかど》等四千の勢。開城には、小早川|隆景《たかかげ》、吉川《きっか
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