制海権を握るならば、遠征の日本軍は後方との連絡を絶たれ、大敗したかも知れない。バルチック艦隊を日本海に撃滅して置かなかったなら、満洲に於ける日露の戦局はどうなったかわからないと同様である。朝鮮、明にとって惜しい事には、この海軍出動説はついに実現しなかった。一方の沈惟敬の説は直ちに採用されて、惟敬は遊撃将に任命された。この男はもと無頼漢であったが流れ流れて北京に来て居ったが、交友の中に嘗つて倭寇の為に擒《とりこ》にされ、久しく日本に住んで居た者があった。その友人から予々《かねがね》日本の事情を聴いて居た惟敬は、身を立つる好機至れりとして、遊説の役を買って出たのである。八月末、平壌の城北|乾福山《かんぷくざん》の麓に小西行長と会見した。何故行長が明の使と会見したかと云うと、行長は既に日本軍遠征をこれ以上に進める事も好まなかったからである。いい潮時さえあらば講和をなしたいと考えて居たからである。明使沈惟敬が来たのは、行長にとって歓迎する処であっただろう。そこで行長は明からの正式の講和使を遣わさんことを求め、五十日をもって期限とした。沈惟敬之を承諾して、標《しるし》を城北の山に樹《た》てて日朝両軍をして互に之を越える事を禁じて去った。休戦状態である。沈惟敬は北京に還って、行長等媾和の意ある事を報じた。処が明政府は既に李如松を提督に任命して、朝鮮救援の軍を遼東に集中しつつあったので、今更惟敬の説を採《と》り上げ様としない。聴かない許《ばか》りでなく李如松は怒って之を斬ろうとさえしたが、参謀が惟敬をして行長を偽り油断させる策を説いたので命|丈《だけ》は助かった。期日の五十日を過ぎても明使が来ないので、行長等怪んで居る処へ、計略を含められた惟敬が来って、媾和使の来る近きに在りと告げた。行長等は紿《あざむ》かれるとは知らないから大いに喜んで待って居たが、其時は李如松四万三千の人馬が、鴨緑江を圧して、義州に集中しつつあったのである。全軍を三つに分ち、左脇《ひだりわき》、中脇、右脇と呼んだ。左脇は大将|楊元《ようげん》以下李如梅、査大受等。中脇は大将|李如柏《りじょはく》以下。右脇は大将|張世爵《ちょうせいしゃく》、祖承訓以下。兵数各々一万一千を超え、ほとんど全軍騎兵である。
文禄二年(明暦で云えば万暦二十一年)の正月元日、この三脇の大軍は安州城南に布陣した。当時朝鮮の非常時内閣の大
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