昨日の晩の九時頃じゃということです。
賢一郎 どんな身なりをしておったんや。
新二郎 あんまり、ええなりじゃないそうです。羽織も着ておらなんだということです。
賢一郎 そうか。
新二郎 兄さんが覚えとるお父さんはどんな様子でした。
賢一郎 わしは覚えとらん。
新二郎 そんなことはないでしょう。兄さんは八つであったんやけに。僕だってぼんやり覚えとるに。
賢一郎 わしは覚えとらん。昔は覚えとったけど、一生懸命に忘れようと、かかったけに。
新二郎 杉田さんは、よくお父さんの話をしますぜ。お父さんは若い時は、ええ男であったそうですな。
母   (台所から食事を運びながら)そうや、お父さんは評判のええ男であったんや。お父さんが、大殿様のお小姓をしていた時に、奥女中がお箸箱に恋歌を添えて、送って来たという話があるんや。
新二郎 なんのために、箸箱をくれたんやろう、ははははは。
母   丑の年やけに、今年は五十八じゃ。家にじっとしておれば、もう楽隠居をしている時分じゃがな。
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(三人食事にかかる)
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母  
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