どうも見たようなことがあると思って、近づいて横顔を見ると、家《うち》のお父さんに似ていたというんです。どうも宗太郎さんらしい、宗太郎さんなら右の頬にほくろがあるはずじゃけに、ほくろがあったら声をかけようと思って、近よろうとすると水神さんの横町へ、こそこそとはいってしもうたというんです。
母   杉田さんなら、お父さんの幼な友達で、一緒に槍の稽古をしていた人やけに、見違うこともないやろう。けどもうお前、二十年にもなるんやけにのう。
新二郎 杉田さんもそういうとったです。何しろ二十年も会わんのやけに、しっかりしたことはいえんけど、子供の時から交際《つきお》うた宗太郎さんやけに、まるきり見違えたともいえんいうてな。
賢一郎 (不安な瞳を輝かして)じゃ、杉田さんは言葉をかけなかったのだね。
新二郎 ほくろがあったら名乗る心算《つもり》でいたのやって。
母   まあ、そりゃ杉田さんの見違いやろうな。同じ町へ帰ったら自分の生れた家《うち》に帰らんことはないけにのう。
賢一郎 しかし、お父さんは家《うち》の敷居はちょっと越せないやろう。
母   私はもう死んだと思うとんや、家出してから二十年になるんやけえ。
新二郎 いつか、岡山で会った人があるというんでしょう。
母   あれも、もう十年も前のことじゃ。久保の忠太さんが岡山へ行った時、家《うち》のお父さんが、獅子や虎の動物を連れて興行しとったとかで、忠太さんを料理屋へ呼んで御馳走をして家《うち》の様子をきいたんやて。その時は金時計を帯にさげたり、絹物ずくめでえらい勢いであったいうとった。それからはなんの音沙汰もないんや。あれは戦争のあった明くる年やけに、もう十二、三年になるのう。
新二郎 お父さんはなかなか変っとったんやな。
母   若い時から家《うち》の学問はせんで、山師のようなことが好きであったんや。あんなに借金ができたのも道楽ばっかりではないんや。支那へ千金丹を売り出すとかいうて損をしたんや。
賢一郎 (やや不快な表情をして)おたあさんお飯《まんま》を食べましょう。
母   ああそうやそうや。つい忘れとった。(台所の方へ立って行く、姿は見えずに)杉田さんが見たというのもなんぞの間違いやろ。生きとったら年が年やけに、はがきの一本でもよこすやろ。
賢一郎 (やや真面目に)杉田さんがその男に会うたのは何日《いつ》のことや。
新二郎
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