、家《うち》には金がないんやけにな。この頃のことやけに、少し支度をしても三百円や五百円はすぐかかるけにのう。
賢一郎 おたねも、お父さんのために子供の時ずいぶん苦労をしたんやけに、嫁入りの支度だけでもできるだけのことはしてやらないかん。私たちの貯金が千円になったら半分はあれにやってもええ。
母 そんなにせいでも、三百円かけてやったらええ。その後でお前にも嫁を貰うたらわしも一安心するんや。わしは亭主運が悪かったけど子供運はええいうて皆いうてくれる。お父さんに行かれた時はどうしようと思ったがのう……。
賢一郎 (話題を転ずるために)新は大分遅いな。
母 宿直やけに、遅うなるんや。新は今月からまた月給が上るというとった。
賢一郎 そうですか。あいつは中学校でよくできたけに、小学校の先生やこしするのは不満やろうけど、自分で勉強さえしたらなんぼでも出世はできるんやけに。
母 お前の嫁も探してもろうとんやけど、ええのがのうてのう。園田の娘ならええけど、少し向うの方が格式が上やけにくれんかも知れんでな。
賢一郎 まだ二、三年はええでしょう。
母 でもおたねをほかへやるとすると、ぜひにも貰わないかん。それで片が付くんやけに。お父さんが出奔《しゅっぽん》した時には三人の子供を抱えてどうしようと思ったもんやが……。
賢一郎 もう昔のことをいうても仕方がないんやけえに。
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(表の格子開き新二郎帰って来る。小学教師にして眉目秀れたる青年なり)
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新二郎 ただいま。
母 やあおかえり。
賢一郎 大変遅かったじゃないか。
新二郎 今日は調べものがたくさんあって、閉口してしもうた。ああ肩が凝った。
母 さっきから御飯にしようと思って待っとったんや。
賢一郎 御飯がすんだら風呂へ行って来るとええ。
新二郎 (和服に着替えながら)おたあさん、たねは。
母 仕立物を持って行っとんや。
新二郎 (和服になって寛《くつろ》ぎながら)兄さん! 今日僕は不思議な噂をきいたんですがね。杉田校長が古新町で、家《うち》のお父さんによく似た人に会ったというんですがね。
母と兄 うーむ。
新二郎 杉田さんが、古新町の旅籠屋《はたごや》が並んどる所を通っとると、前に行く六十ばかりの老人がある。よく見ると
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