り」
大体その険要の地であることが察せられるであろうと思う。
三月四日に、第一回の田原坂攻撃が始まる。前夜、先ず、山鹿《やまが》南関の間の要衝に兵を派して厳戒せしめた。これは薩軍が迂回して背後を衝くのを慮《おもんぱか》ったからである。而して後、第二旅団の全部と、第一旅団の一部を本軍として、正面から攻撃することになり、第一旅団の残部は二俣《ふたまた》を目指すことになった。本軍の先鋒青木大尉は、率先して進み、第一塁を陥れて勇躍更に坂を上るが、薩軍の弾丸は雨の様に降りそそぎ、午後の三時になっても占領する事が出来ないので退却した。坂の麓で督戦して居た野津少将は、再度の突撃を決意して、将士と共に決死の酒を酌《く》んで鼓舞した。折しも、時ならぬ雷雨が襲って、鬱然たる山峡は益々暗い。天の時なりと考えた少将は、進軍|喇叭《らっぱ》を吹かしめ、突進させた。しかし敵弾雨よりも繁《しげ》しくて、徒《いたず》らに多くの死傷を出すに終った。此時の戦に、谷村計介も戦死したのである。計介は始め、第十三連隊長心得、川村操六少佐の旗下で、熊本籠城の一人であった。殊死して守城するに決心した谷少将は、何とかして守城の方
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