、篠原大刀を揮って之を叱した。次いで単身、ゆるやかな足取りで来たのが村田である。薩軍やや元気を恢復したものの、猶《なお》危倶の念が去らないので、村田の姿を見ると、「退却で御座いますか」と問うた者がある。村田嘲笑って曰く、「ひとつ官軍の奴共を、この狭隘の地に引入れて、鏖《みなごろし》にして見せるかな」と。容易に抜く事が出来なかったのも尤である。別府晋介また、別路から、小天《こてん》街道に赴いて海岸線を守ったが、此日、朝の十時から昼の三時に至る間激戦少しも止まず、官薩の死傷相匹敵したと云う。
それにしても、官軍は境木まで前進することを得て居る。田原坂はもう、この境木の目の前に在る。田原坂の血戦の幕が、切って落されたのは間も無くである。
当時東京日日の新聞社長であった福地源一郎氏が、従軍記者として、田原坂戦闘の模様を通信して居るのがある。その中に田原坂の要害を報じて、
「……坂は急上りの長坂にて、半腹の屈曲をなし、坂の両側は皆谷にて谷の内の両側は切り崖、樹木茂る。この険の突角の所を撰びて、賊は砲塁を二重にも三重にも構へ、土俵が間に合はぬとて、百姓共が囲み置く粟麦などを俵のまゝ用ひたる程な
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