表面こそ『阿兄《あにい》! 阿兄!』と立てているものの、心の裡では、自分を重んじていないことが、ありありと感ぜられた。
 入れ札と云う声を聴いたとき、九郎助は悪いことになったなあと思った。今まで、表面だけはともかくも保って来た自分の位置が、露骨に崩《くず》されるのだと思うと、彼は厭な気がした。十一人居る乾児の中で自分に入れてくれそうな人間を考えてみた。が、それは弥助の他《ほか》には思い当らなかった。弥助も九郎助と同様に、古い顔であって、後輩の浅太郎や、喜蔵などが、グングン頭を擡《もた》げて来るのを、常から快からず思っているから、こうした場合には、きっと自分に入れてくれるだろうと思った。が、弥助だけは自分に入れてくれるとしても、弥助の一枚だけで、三人の中に這入《はい》ることは考えられなかった。浅太郎には四枚入るだろうと思った。喜蔵に三枚入るとして、十一枚の中、後へ四枚残る。その中、自分の一枚をのけると三枚残る。もし、その中、二枚が、自分に入れられていれば、三人の中に加わることは出来るかも知れないと思った。が、弥助の他に、自分に入れてくれそうな人は、どう考えても当がなかった。ひょっと[#「ひょっと」に傍点]したら、並川《なみかわ》の才助がとも思った。あの男の若い時には、可成り世話を焼いてやった覚えがある。が、それは六七年も前のことで、今では『浅阿兄、浅阿兄』と、浅にばかりくっ付いている。そう思うと、弥助の入れてくれる一枚の他には、今一枚を得る当《あて》は、どうにもつかなかった。乾児の中で年頭《としがしら》でもあり、一番兄分でもある自分が、入れ札に落ちることは――自分の信望が少しも無いことがまざまざと表われることは、もう既定の事実のように、九郎助には思われた。不愉快な寂しい感じに堪《た》えられなくなって来た。
 一本しか無い矢立の筆は、次から次へと廻って来た。
「おい! 阿兄! 筆をやらあ」
 ぼんやり考えていた九郎助の肩を、つつきながら横に居た弥助が、筆を渡してくれた。弥助は筆を渡すときに、九郎助の顔を見ながら、意味ありげに、ニヤリと笑った。それは、たしかに好意のある微笑だった。『お前を入れたぜ』と云うような、意味を持った微笑であるように九郎助は思った。そう思うと、九郎助は後のもう一枚が、どうしても欲しくなった。後の一枚が、自分の生死の境、栄辱の境であるように思われた。
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