とじゃ。手間はとらせませぬほどに。
源次 そうはしておられませぬわい。もうすぐ開きまする。
花車女 なんのまだ開きまするものかいのう。さあござりませ。(無理に源次の手を取りて、下手の入口より娘を伴うて去る)
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(助右衛門に扮した仙台弥五七、手代丁稚に扮した三、四人の俳優と揃うて、右手より出て来る)
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甲 この頃の娘は、油断がならぬことじゃ。役者を慕うて楽屋まで、のめのめとはいって来る。
乙 それにしても、袖崎どのは果報じゃ。男知らずの町娘から、あのように慕われては、まんざら憎うはあるまい。はははは。
丙 それにしても、見物人のどよみよう。小屋が、割れるような大入りと見える。
四郎五郎 (相手の源次を失うて、ぼんやり立っていたが)江戸の少長に、この大入りの様子が見せたいのう。
弥五七 ほんとにそうじゃ。この狂言に比べると、浅間ヶ嶽の狂言などは、子供だましじゃ。
四郎五郎 浅間ヶ嶽に立つ煙もだんだん薄うなって行くのじゃ。はははは。
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(霧浪千寿、美しいおさんに扮して、部屋から出て来る。金剛が付いている)
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弥五七 昨日ちょっとある所で、聞いた噂じゃが、藤十郎どのは、今度の狂言の工夫に悩んだ揚げ句、ある茶屋の女房に恋をしかけ、密夫《みそかお》の心持や、動作《しぐさ》の形を付けたということじゃが、真実《ほんとう》かのう。
四郎五郎 わしは、しかとは知らぬが、千寿どのは、聞いたであろう。その噂は真実かのう。
千寿 そんな噂は、わしも人伝《ひとづて》には聞いたがのう。藤様は、口をつぐんで何もいわれぬのでのう。が、あの宗清で顔つなぎの酒盛があった晩のことじゃが、藤様は狂言の工夫に屈託して、酒盛の席を中座され、そなたたちは、追々酔いつぶれて、別間へ退かれた後のことじゃのう。藤様が、蒼い顔して、息を切らせながら、酒宴の席へ帰って来られると、立てつづけに、大杯で三、四杯|呷《あお》ってからいわれるのに、「千寿どの安堵めされい。狂言の工夫が付き申した」と、いわれたが、平生の藤様とは思われぬほどの恐い顔付きじゃったが、あの晩に……。(と千寿が首を傾けているとき、下手の入口から宗清のお梶が、ひそかに入って来るのに気がついて、口をつぐむ)
弥五七 (役者の道化振りを発揮して)これは、これはお梶どの。ようおいでなされました。ちょっとお尋ねしまする。藤十郎どのが、狂言の稽古の相手はあなた様ではござりませぬか。
お梶 (緊張しながら、しかもつつましやかに)なんでござりまする。藪から棒のお尋ねでござりまするのう。
弥五七 (やはり道化た身振りで)藤十郎どのが、今度の狂言の稽古に、人の女房に偽りの恋をしかけ、靡《なび》くと見て、逃げたとのことでござりまする。もしやお心当りがござりませぬか。
お梶 (つつましやかに、態度をみださず)偽りにもせよ、藤十郎様の恋の相手に、一度でもなれば、女子に生まれた本望でござりますわい。
弥五七 よくぞ仰せられた。ははは。
千寿 (やや取りなすように)ほんに、日頃から貞女の噂高いそなたでなければ、さしずめ疑いがかかるところでござりますのう。楽屋へ御用でござりまするか。さあお通りなさりませ。
お梶 あのう、嵐三十郎様に、お客様からの言伝《ことづて》を。
千寿 さようでござりまするか。さあ、お通りなさりませ。
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(お梶、会釈して通り過ぎる。役者の部屋の方へ行かんとして、部屋を立ち出でたる藤十郎と顔を合わす。二人とも、瞬間的に立ち竦《すく》む。お梶ちょっと目礼して行き過ぎる。藤十郎、しばらく後姿を見詰むる)
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四郎五郎 (藤十郎の立ち出でたるを見て)今も、そなた様の噂をしてじゃ。今度の狂言について、楽屋の内外に広がった噂を、ご存じか。
藤十郎 (座元らしい威厳を失わないで)一向聞きませぬな。
弥五七 噂の本尊のそなた様が知らぬとは、面妖な。
千寿 藤様にはいわぬがよいわいな。
弥五七 いわいでも、いつかは知れることじゃ。藤十郎様、お聞きなさりませ。今度の狂言の工夫にそなた様がある人妻に恋をしかけたとの噂じゃ。
藤十郎 (快活に笑って)埒《らち》もない穿鑿《せんさく》じゃ。いつぞやも、わしが嵐三十郎の手負武者を介抱すると、あまり手際がよいというて、やれ藤十郎は外科の心得があるなどとやかましい沙汰じゃ。心得がのうても、心得のあるように真実に見せるのが、役者の芸じゃ。油売りになれば、油売った心得がのうても、油売りになって見せるのは芸じゃ。密夫の心得がのうて、密夫の
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