中でいちばん目立つのは梅鉢の紋の付いた暖簾のかかった藤十郎の部屋である。真ん中に楽屋番の部屋がある。下手に万太夫座の舞台に通ずる出入口がある。浅黄の暖簾が垂れている。あちらの舞台にては幕が開く前と見え、鼓と太鼓と笛の音が継続して聞える。幕が開くと、狂言方や下回りの役者たちが、五、六人左右に忙しく行き交う。楽屋番が、衣裳、腰の物などを、役者の部屋へ運んで行く。
万太夫座の若太夫が、藤十郎の部屋から出てくる。出合頭に頭取と挨拶する。
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頭取 おめでとうござんす。今日も明六つの鐘が鳴るか鳴らぬに、木戸へはいっぱいの客衆でござりまする。
若太夫 めでたいのう。ほんに藤十郎どのじゃ。密夫《みそかお》の身のこなしが、とんとたまらぬと京女郎たちの噂話じゃ。
頭取 これでは、半左衛門の人々も、あいた口が、閉《ふさ》がらぬことでござりましょう。この評判なら百日はおろか二百日でも、打ち続けるは定《じょう》でござりまするのう。
若太夫 なんにしてもめでたいことじゃのう。楽屋中よく気を付けてのう。粗相のないようにのう。こんな大入りの時に限って、火事盗難なぞの過ちがありがちでのう。
頭取 へいへい合点でござりまする。
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(二人左右に別れる。下手の出入口から、丁稚を連れた手代風の男が入って来る)
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手代風の男 (頭取を呼びかけて)ああもしもし。藤十郎様のお部屋はどこでござりまするか。
頭取 どちらからじゃ。お部屋はすぐここじゃが。
手代風の男 四条室町の備前屋の手代でござりまする。
頭取 おお室町の大尽のお使いでござりまするか。さあ! お通りなさりませ。左から二つ目の部屋じゃ。
手代風の男 なるほどな、梅鉢の紋が付いておりますのう。
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(手代風の男、藤十郎の部屋へはいって行く。藤十郎の部屋のすぐ隣から、大経師以春に扮した中村四郎五郎と召使お玉に扮した袖崎源次とが出て来る)
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四郎五郎 (源次の袖を捕えながら、ちょっと所作をして)どうも、お前にじゃれかかるところが、うまく行かぬのでのう。今日は三日目じゃが、まだ形が付かぬでのう。昨日藤十郎どのに、教えを乞うてみると、自分で工夫が肝心じゃと、いわしゃれた。さあ、幕の開く前に、もう一度稽古に付き合うてたもらぬか。
源次 おお安いことじゃ。何度でも付き合おう。藤十郎どのに、工夫を尋ねるといつも、強《きつ》い小言じゃ。みんな自分で工夫せいとはあの方の決まり文句じゃ。
四郎五郎 おお一昨年のことじゃ、山下京右衛門が、江戸へ下る暇《いとま》乞いに藤十郎どのの所へ来て、わがみも其許《そこもと》を万事手本にしたゆえに、芸道もずんと上達しましたといわれると、藤十郎どのはいつものように、ちょっと顔を顰《しか》められたかと思うと、「人の真似をする者は、その真似るものよりは必定劣るものじゃ。そなたも、自分の工夫を専一にいたされよ」とにこりともせずに真っ向からじゃ。あの折の京右衛門どののてれまき方を、思い出すと今でも可笑《おか》しくなるのじゃ。
源次 藤十郎どのから、お小言を食わぬ前に、もう一工夫してみよう。
四郎五郎 (急に芝居の身振りをなし)これさ、どっこいやらぬ。本妻の悋気《りんき》と饂飩《うどん》に胡椒《こしょう》はおさだまり、なんとも存ぜぬ。紫色はおろか、身中《みうち》が、かば茶色になるとても、君ゆえならば厭わぬ。
源次 (応じて芝居の身振りをしながら)どうなりとさしゃんせ。こちゃおさん様にいうほどに。あれおさん様、おさん様。
四郎五郎 (やはり身振りを続けながら)やれやかましいその外おさんわにの口、口のついでに口々。(急に役者に立ち返りながら)どうもここのところが、うまく行かぬのじゃ。
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(芝居茶屋の花車女に案内され、若き町娘下手の入口より入って来る)
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花車女 おお源次さま。ちょうどよいところじゃ、それそれこの間ちょっとお耳に入れた東洞院《とうのとういん》の近江屋のお嬢様でござりまする。
源次 (四郎五郎に、気兼ねをしながら)もう、幕が開《あ》きますほどに、またして下さりませ。
花車女 ほんに情けないことを、いわれますのう。せっかく楽屋まで、来られましたのに、ちょっと言葉なりと交して下さりませ。
源次 (もじもじしながら、娘に対して)ほんに、ようお出でなさりました。
町娘 (同じく恥じらいながら、黙って頭を下げる)
花車女 さあちょっと私の茶屋まで、入らせられませい。ほんのちょっ
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