狂言ができねば、盗人の心得がのうては、盗人の狂言はできぬ訳合いじゃ。公卿衆になった心得がのうては、舞台の上で公卿衆にはなれぬ訳合いじゃ。埒もない沙汰じゃ。口性《くちさが》ない京童《きょうわらべ》の埒もない沙汰じゃ。そのような沙汰が伝わっては、藤十郎の身近にいる人様のお内儀に、どのような迷惑をかけようとも計られぬわ。かまえて、打ち消して下さりませ。
千寿 ほんに藤様がいわれる通りじゃ。
弥五七 さすがは藤十郎様じゃ。なるほどなあ。心得がのうては狂言ができぬとなれば、役者は上は摂政関白から下は下司下郎のはしまで、一度はなって見なければ役者にはなれぬはずじゃ。なるほどなあ。
手代風の男 (藤十郎の部屋から出て来て)それでは、失礼いたしますでござりまする。
藤十郎 御苦労でござりました。大尽様に、よう礼をいうて下さりませ。
[#ここから4字下げ]
(手代風の男丁稚とともに去る。幕の開くこといよいよ近くなりしと見え、道具方楽屋方等の往復繁くなる)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
藤十郎 (千寿を顧みて)千寿どの。あの闇の中で、そなたと初めて手を取り合うとき、今少し逆上した風を見せてたもらぬか。女はあのようなときは、男よりも身も世もあらぬように逆上するものじゃほどにのう。
千寿 (素直に)あいのう、合点じゃ。今日は作者の門左衛門様も、御見物じゃほどに、一段心を込めてみますわいのう。
藤十郎 さあ、もう幕が開くに程もあるまい。
[#ここから4字下げ]
(千寿の手を取りて行かんとす。急に、楽屋が騒ぎ出す。「自害じゃ。自害じゃ。女の自害じゃ」と道具方や下回りの役者たち、役者の部屋の方へ駆け込む)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
頭取 (あわてて駆け込みながら)ああ、声を立ててはならん。見物が騒ぎ出すと、舞台の方がめちゃくちゃじゃ。静かに、静かに。(皆の後から奥の方へはいる)
弥五七 (やっぱり道化方らしいやや上ついた態度で)はて面妖な。自害、しかも女の自害とは。楽屋には、牝猫一匹おらぬはずじゃがのう。
千寿 (同じく不思議そうに)女の自害! はて女の自害!
藤十郎 (思い当ることあるごとく、やや蒼白になりながら黙っている)……。
[#ここから4字下げ]
(道具方楽屋番など、お梶の死体を担いで来る。口々に「宗清のお内儀じゃ」という)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
千寿 (駭《おどろ》いて駆け寄りながら)なに! 宗清のお内儀! (ふと気が付いたように、藤十郎の方を振り返る)……。
藤十郎 (千寿の振り返った目を避くるように、目をそらしている)……。
弥五七 いかにも宗清のお内儀じゃ。短刀で胸の下をたった一突きじゃ。
四郎五郎 今ここで話して行かれたのに、瞬く間の最期じゃ。藤十郎様、御覧なされませ、いかな子細かは分かりませぬが、女子には希な見事な最期じゃ。
藤十郎 (引き付けられたように、歩み寄りながら、じっと死顔に見入る。言葉なし)……。
若太夫 (息せきながら、駆け込んで来る)何事じゃ。何事じゃ。なに女の自害! やあ宗清のお内儀じゃ。いかな子細かも知らぬが、なにも万太夫座の楽屋で、自害せいでもよいのを。
千寿 ほんに、楽屋に死にに来ないでも。(ふと、藤十郎の顔を見て黙る)……。
弥五七 こんな不吉なことが、世間に知れると、せっかく湧き立った狂言の人気に、傷が付かぬものでもない。
若太夫 ほんにそれが心配じゃ。皆様、他言は無用にして下されませ。
藤十郎 (黙って死骸を見詰めていたが、急に気を変えて)なんの心配なことがあるものか。藤十郎の芸の人気が女子一人の命などで傷つけられてよいものか。(千寿の手を取りながら)さあ、千寿どの舞台じゃ。
千寿 (真実の女のごとくやさしく)あいのう。
藤十郎 (つかつかと舞台の上へ急いだが、また引返して死体を一目見、ついに思い決したるごとく、退場す。同時に幕の開く拍子木の音が聞えて静かに幕が下る)
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]――幕――
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:野口英司
1999年1月1日公開
2005年10月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全7ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング