た。藤十郎は、昔から、お梶を知っている。若衆方の随一の美形と云われた藤十郎が美しいか、歌妓のお梶が美しいかと云う物争いは、二十年の昔には、四条の茶屋に遊ぶ大尽達の口に上った事さえある。その頃からの馴染《なじみ》である。が、藤十郎は、今までに、お梶の姿を心にとめて、見たこともない。ただ路傍の花に対するような、淡々たる一|瞥《べつ》を与えていたに過ぎなかった。
 が、今宵《こよい》は、この人妻の姿が、云い知れぬ魅力を以《もっ》て、ぐんぐんと彼の眼の中に、迫って来るのを覚えた。密夫《みそかお》と云う彼にとっては、未《いま》だ踏んでみた事のない恋の領域の事を、この四五日、一心に思い詰めていた為だろう。今までは余り彼の念頭になかった人妻と云う女性の特別な種類が、彼の心に不思議な魅力を持ち始めて、今お梶の姿となって、ぐんぐん迫って来るように覚えた。
 藤十郎のお梶を見詰める眸《ひとみ》が、異常な興奮で、燃え始めたのは無論である。人妻であると云う道徳的な柵《しがらみ》が取払《とりはらわ》れて、その古木が却《かえ》って、彼の慾情を培《つちか》う、薪木《たきぎ》として投ぜられたようである。彼は、娘や後家や歌妓や遊女などに、相対した時には、かつふつ懐《いだ》いた事のないような、不思議な物狂わしい情熱が、彼の心と身体とを、沸々燃やし始めたのである。

        八

 藤十郎の心にそうした、物狂わしい※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]風《ひょうふう》が起っていようとは、夢にも気付かないらしいお梶《かじ》は押入れから白絖《しろぬめ》の夜着《よぎ》を取出すと、藤十郎の背後に廻りながら、ふうわりと着せかけた。
 白鳥の胸毛か何かのように、暖い柔かい、夜着の感触を身体一面に味《あじわ》った時、藤十郎のお梶に対する異常な興奮は、危く爆発しようとした。が、彼の律義《りちぎ》な人格は、咄嗟《とっさ》に彼の慾情の妄動《もうどう》をきっぱりと、制し得たのである。藤十郎は、宗山清兵衛の事を考えた。また、貞淑と云う噂《うわさ》の高いお梶の事を考えた。そして自分が、今まで色事をしながらも、正しい道を踏み外《はず》さなかったと云う自分自身の誇を考えた。彼のお梶に対して懐いた嵐《あらし》のような激動は、忽《たちま》ち和《な》ぎ始めたのである。
 お梶は、平素《いつも》の通のお梶であった。彼女は夜着を着せてしまうと「さあ、お休みなされませ。彼方《あちら》へ行ったら女どもに、水など運ばせましょうわいな」と、愛想笑いを残して足早に部屋を出ようとした。その刹那《せつな》である。藤十郎の心にある悪魔的な思付がムラムラと湧《わ》いて来た。それは恋ではなかった。それは烈《はげ》しい慾情ではなかった。それは、恐ろしいほど冷めたい理性の思付であった。恋の場合には可なり臆病《おくびょう》であった藤十郎は、あたかも別人のように、先刻の興奮は、丸きり嘘であったかのように、冷静に、
「お梶どの、ちと待たせられい」と、呼び止めた。
「何ぞ、外に御用があってか」と、お梶は無邪気に、振り返った。剃《そ》り落とした眉毛《まゆげ》の後が青々と浮んで見える色白の美顔は、絹行燈《きぬあんどん》の灯影《ほかげ》を浴びて、ほんのりと艶《なま》めかしかった。
「ちと、御意を得たいことがある程に、坐ってたもらぬか」こう云いながら、藤十郎は、心持ち女の方へ膝《ひざ》をすすませた。
 お梶は、藤十郎の息込み方に、少し不安を、感じたのであろう。藤十郎には、余り近寄らないで、其処に置いてある絹行燈の蔭に、踞《うずく》まるように坐った。
「改まって何の用ぞいのうおほほほ」と、何気なく笑いながらも、稍《やや》面映《おもは》ゆげに藤十郎の顔を打ち仰いだ。藤十郎の声音《こわね》は、今までとは打って変って、低いけれども、然《しか》しながら力強い響を持っていた。
「お梶どの。別儀ではござらぬが、この藤十郎は、そなたに二十年来隠していた事がある。それを今宵は是非にも、聴いて貰《もら》いたいのじゃ。思い出せば、古いことじゃが、そなた[#「そなた」に傍点]が十六で、われらが二十《はたち》の秋じゃったが、祇園祭《ぎおんまつり》の折に、河原の掛小屋で二人一緒に、連舞《つれまい》を舞うたことを、よもや忘れはしやるまいなあ。われらが、そなたを見たのは、あの時が初めてじゃ。宮川町のお梶どのと云えば、いかに美しい若女形《わかおやま》でも、足下にも及ぶまいと、兼々《かねがね》人の噂《うわさ》に聴いていたが、そなたの美しさがよもあれ程であろうとは、夢にも思い及ばなかったのじゃ」と、こう云いながら、藤十郎はその大きい眼を半眼に閉じながら、美しかった青春の夢を、うっとりと追うているような眼付をするのであった。

        九

「その時からじゃ。そなたを、世にも稀《まれ》な美しい人じゃと、思い染めたのは」と、藤十郎は、お梶の方へ双膝《もろひざ》を進ませながら、必死の色を眸《ひとみ》に浮べて、こう云いきった。
 藤十郎に呼び止められた時から、ある不安な期待に、胸をとどろかせていたお梶は最初はこの美しい男の口から、自分達の華《はな》やかな青春の日の、想出話《おもいでばなし》を聴かされて、魅せられたように、ほのぼのと二つの頬《ほお》を薄紅に染めていたが、相手の言葉が、急な転回を示してからは、その顔の色は刹那に蒼《あお》ざめて、蹲くまっている華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》は、わなわなと戦《おのの》き始めていた。
 藤十郎は、恋をする男とは、どうしても受取れぬ程の、澄んだ冷たい眼付で、顔さえ擡《もた》げ得ぬ女を刺し透《とお》す程に、鋭く見詰めていながら、声だけには、烈しい熱情に顫《ふる》えているような響を持たせて、
「そなたを見染めた当座は、折があらば云い寄ろうと、始終念じてはいたものの、若衆方の身は親方の掟《おきて》が厳《きび》しゅうて、寸時も心には委《まか》せぬ身体じゃ。ただ心は、焼くように思い焦《こが》れても、所詮《しょせん》は機《おり》を待つより外はないと、諦《あきら》めている内に、二十の声を聞くや聞かずに、そなたは清兵衛殿の思われ人となってしまわれた。その折のわれらが無念は、今思い出しても、この胸が張り裂くるようでおじゃるわ」こう云いながら、藤十郎は座にもえ堪《た》えぬような、巧みな身悶《みもだ》えをして見せたが、そうした恋を語りながらも、彼の二つの眸だけは、相変らず爛々《らんらん》たる冷たい光を放って、女の息づかいから容子《ようす》までを、恐ろしきまでに見詰めている。
 お梶の顔の色は、彼女の心の恐ろしい激動をさながらに、映し出していた。一旦蒼ざめきってしまった色が、反動的に段々薄赤くなると共に、その二つの眼には、熱病患者に見るような、直《すぐ》にも火が点《つ》きそうな凄《すさま》じい色を湛《たた》え始めた。
「人妻になったそなた[#「そなた」に傍点]を恋い慕うのは人間のする事ではないと、心で強《きつ》う制統しても、止まらぬは凡夫の想じゃ。そなたの噂《うわさ》を聴くにつけ、面影を見るにつけ、二十年のその間、そなた[#「そなた」に傍点]の事を忘れた日は、ただ一日もおじゃらぬわ」彼は、一語一語に、一句一句に巧な、今までの彼の舞台上の凡《すべ》ての演戯にも、打ち勝《まさ》った程の仕打を見せながら、しかも人妻をかき口説く、恐怖《おそれ》と不安とを交えながら、小鳥のように竦《すく》んでいる女の方へ、詰め寄せるのであった。
「が、この藤十郎も、人妻に恋をしかけるような非道な事は、なすまじいと、明暮燃え熾《さか》る心をじっと抑えて来たのじゃが、われらも今年四十五じゃ、人間の定命《じょうみょう》はもう近い。これ程の恋を――二十年来|偲《しの》びに偲んだこれ程の想を、この世で一言も打ち明けいで、何時《いつ》の世誰にか語るべきと、思うに付けても、物狂わしゅうなるまでに、心が擾《みだ》れ申して、かくの有様じゃ。のう、お梶どの、藤十郎をあわれと思召《おぼしめ》さば、たった一言情ある言葉を、なあ……」と、藤十郎は狂うばかりに身悶えしながら、女の近くへ身をすり寄せている。ただ恋に狂うている筈《はず》の、彼の瞳《ひとみ》ばかりは、刃《やいば》のように澄みきっていた。
 余りの激動に堪《た》えかねたのであろう、お梶は、
「わっ」と、泣き俯《ふ》してしまった。

        一〇

 恐ろしい魔女が、その魅力の犠牲者を、見詰めるように、藤十郎は泣き俯したお梶を、じっと見詰めていた。彼の唇《くちびる》の辺には、凄《すさま》じい程の冷たい表情が浮んでいた。が、それにも拘《かかわ》らず、声と動作とは、恋に狂うた男に適《ふさわ》しい熱情を、持っている。
「のう、お梶どの。そなたは、この藤十郎の恋を、あわれとは思《おぼ》さぬか。二十年来、堪《た》え忍んで来た恋を、あわれとは思さぬか。さても、強《きつ》いお人じゃのう」こう云いながら、藤十郎は、相手の返事を待った。が、女はよよと、すすり泣いているばかりであった。
 灯《ひ》を慕って来た千鳥だろう。銀の鋏《はさみ》を使うような澄んだ声が、瀬音にも紛れず、手に取るように聞えて来る。女も藤十郎も、おし黙ったまま、暫《しばら》くは時刻《とき》が移った。
「藤十郎の切ない恋を、情《つれ》なくするとは、さても気強いお人じゃのう、舞台の上の色事では日本無双の藤十郎も、そなた[#「そなた」に傍点]にかかっては、たわいものう振られ申したわ」と藤十郎は、淋《さび》しげな苦笑を洩《もら》した。
 と、今まで泣き俯していた女は、ふと面《おもて》を上げた。
「藤様、今|仰《おっしゃ》った事は、皆本心かいな」
 女の声は、消え入るようであった。その唇が微《かす》かに痙攣《けいれん》した。
「何の、てんごう[#「てんごう」に傍点]を云うてなるものか、人妻に云い寄るからは、命を投げ出しての恋じゃ」と、いうかと思うと、藤十郎の顔も、さっと蒼白《そうはく》に変じてしまった。浮腰になっている彼の膝《ひざ》が、かすかに顫《ふる》いを帯び始めた。
 必死の覚悟を定めたらしいお梶は、火のような瞳で、男の顔を一目見ると、いきなり傍の絹行燈の灯を、フッと吹き消してしまった。
 恐ろしい沈黙が、其処《そこ》にあった。
 お梶は、身体中の毛髪が悉《ことごと》く逆立《さかだ》つような恐ろしさと、身体中の血潮が悉く湧《わ》き立つような情熱とで、男の近寄るのを待っていた。が、男の苦しそうな息遣《いきづか》いが、聞えるばかりで、相手は身動きもしないようであった。お梶も居竦んだまま、身体をわなわなと顫わせているばかりであった。
 突如、藤十郎の立ち上る気勢《けはい》がした。お梶は、今こそと覚悟を定めていた。が、男はお梶の傍を、影のようにすりぬけると、灯のない闇《やみ》を、手探りに廊下へ出たかと思うと、母屋の灯影を目的《めあて》に獣《けもの》のように、足速く走り去ってしまったのである。
        ×
 闇の中に取残されたお梶は、人間の女性が受けた最も皮肉な残酷な辱《はずか》しめを受けて、闇の中に石のように、突立っていた。
 悪戯《いたずら》としては、命取りの悪戯であった。侮辱としては、この世に二つとはあるまじい侮辱であった。が、お梶は、藤十郎からこれ程の悪戯や侮辱を受くる理由《いわれ》を、どうしても考え出せないのに苦しんだ。それと共に、この恐ろしい誘惑の為に、自分の操を捨てようとした――否、殆《ほとん》ど捨ててしまった罪の恐ろしさに、彼女は腸《はらわた》をずたずたに切られるようであった。

        一一

 酒宴の席に帰った藤十郎は、人間の面《かお》とは思えないほどの、凄《すさま》じい顔をしていた。が、彼は、勧められるままに大盃を五つ六つばかり飲み乾《ほ》すと、血走った眼に、切波千寿《きりなみせんじゅ》の方を向きながら、
「千寿どの安堵《あんど》めされい。藤十郎、この度《たび》の狂言の工夫が悉く成り申したわ」と云いながら、声高《こわだか》に笑って見せた。が、その
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