うと云う気を起さなかったのである。
こうした藤十郎の心に、怖《おそ》ろしい警鐘は到頭伝えられたのだ。「また何時もながら伊左衛門か、藤十郎どのの紙衣姿は、もう幾度見たか、数えきれぬ程じゃ」と、云う巷《ちまた》の評判は、藤十郎に取っては致命的な言葉であった。彼が、怖れたのは七三郎と云う敵ではなかった。彼の大敵は、彼自身の芸が行き詰まっていることである。今までは、比較される物のない為に、彼の芸が行き詰まっている事が、無智な見物には分らなかったのである。彼は、七三郎の巴之丞を見た時に、傾城買の世界とは、丸きり違った新しい世界が、舞台の上に、浮き出されている事を感じない訳には、行かなかった。ただ浮ついた根も葉もないような傾城買の狂言とは違うて、一歩深く人の心の裡に踏み入った世界が、舞台の上に展開されて来るのを認めない訳には行かなかった。見物は、傾城買の狂言から、たわいもなく七三郎の舞台へ、惹《ひ》き付けられて行った。が、藤十郎は、見物のたわいもない妄動《もうどう》の裡に、深い尤《もっと》もな理由のあるのを、看取しない訳には行かなかったのである。
小手先の芸の問題ではなかった。彼は、もっと深い大切なところで、若輩の七三郎に一足取残されようとしたのである。七三郎の巴之丞が、洛中《らくちゅう》洛外の人気を唆《そそ》って、弥生狂言をも、同じ芸題《だしもの》で打ち続けると云う噂を聞きながら、藤十郎は烈しい焦躁《しょうそう》と不安の胸を抑えて、じっと思案の手を拱《こま》ぬいたのである。その時に、ふと彼の心に浮んだのは、浪華《なにわ》に住んでいる近松門左衛門の事であった。
四
それは、二月のある宵であった。四条|中東《ちゅうとう》の京の端、鴨川《かもがわ》の流近く瀬鳴《せなり》の音が、手に取って聞えるような茶屋|宗清《むねせい》の大広間で、万太夫座の弥生狂言の顔つなぎの宴が開かれていた。
広間の中央、床柱を背にして、銀燭《ぎんしょく》の光を真向に浴びながら、どんすの鏡蒲団《かがみぶとん》の上に、悠《ゆ》ったりと坐り、心持|脇息《きょうそく》に身を靠《もた》せているのは、坂田藤十郎であった。茶せん[#「せん」に傍点]に結った色白の面は、四十を越した男とは、思われぬ程の美しさに輝いて見えた。下には鼠縮緬《ねずみちりめん》の引《ひっ》かえしを着、上には黒|羽二重《はぶたえ》の両面芥子人形《ふたつめんけしにんぎょう》の加賀紋《かがもん》の羽織を打ちかけ、宗伝唐茶《そうでんからちゃ》の畳帯をしめていた。藤十郎の右に坐っているのは、一座の若女形《わかおやま》の切波千寿《きりなみせんじゅ》であった。白小袖《しろこそで》の上に、紫縮緬の二つ重ねを着、虎膚天鵞絨《とらふびろうど》の羽織に、紫の野良帽子《やろう》をいただいた風情《ふぜい》は、さながら女の如く艶《なま》めかしい、この二人を囲んで、一座の道化方、くゎしゃ[#「くゎしゃ」に傍点]方、若衆方などの人々が、それぞれ華美な風俗の限を尽して居並んでいた。その中に、只一人千筋の羽織を着た質素な風俗をした二十五六の男は、万太夫座の若太夫であった。彼は、先刻から酒席の間を、彼方此方《あっちこっち》と廻って、酒宴の興を取持っていたが、漸《ようや》く酩酊《めいてい》したらしい顔に満面の微笑を湛《たた》えながら、藤十郎の前に改めて畏《かしこ》まると、恐る恐る酒盃《さかずき》を前に出した。
「さあ、もう一つお受け下されませ。今度の弥生狂言は、近松様の趣向で、歌舞伎始まっての珍らしい狂言じゃと、都の中はただこの噂ばかりじゃげにござります。傾城買の所作《しょさ》は日本無双と云われた御身様《おみさま》じゃが、道ならぬ恋のいきかた[#「いきかた」に傍点]は、又格別の御思案がござりましょうなハハハハ」と、巧な追従《ついしょう》笑いに語尾を濁した。と、藤十郎と居並んでいる切波千寿は、急に美しい微笑を洩《もら》しながら、
「ホンに若太夫殿の云う通じゃ。藤十郎様には、その辺の御思案が、もうちゃんと付いている筈《はず》じゃ。われなどは、ただ藤十郎様に操《あやつ》られて傀儡《くぐつ》のように動けばよいのじゃ」と、合槌《あいづち》を打った。
藤十郎は、若太夫の差した酒盃を、受け取りはしたものの、彼の言葉にも、千寿の言葉にも、一言も返しをしなかった。彼は、酒の味が、急に苦くなったように、心持顔を顰《しか》めながら、グット一気にその酒盃を飲み乾《ほ》したばかりであった。
彼は、今宵《こよい》の酒宴が、始まって以来、何気ない風に酒盃を重ねてはいたものの、心の裡《うち》には、可なり烈しい芸術的な苦悶《くもん》が、渦巻いているのであった。
彼が、近松門左衛門に、急飛脚を飛ばして、割なく頼んだことは、即座に叶《かな》えられたのであ
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