藤十郎の恋
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)元禄《げんろく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|烈《はげ》しく
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「風にょう+炎」、第4水準2−92−35]風《ひょうふう》
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一
元禄《げんろく》と云う年号が、何時《いつ》の間にか十余りを重ねたある年の二月の末である。
都では、春の匂《にお》いが凡《すべ》ての物を包んでいた。ついこの間までは、頂上の処だけは、斑《まだら》に消え残っていた叡山《えいざん》の雪が、春の柔い光の下に解けてしまって、跡には薄紫を帯びた黄色の山肌《やまはだ》が、くっきりと大空に浮んでいる。その空の色までが、冬の間に腐ったような灰色を、洗い流して日一日緑に冴《さ》えて行った。
鴨《かも》の河原には、丸葉柳《まるはやなぎ》が芽ぐんでいた。その礫《こいし》の間には、自然咲の菫《すみれ》や、蓮華《れんげ》が各自の小さい春を領していた。河水は、日増《ひまし》に水量を加えて、軽い藍色《あいいろ》の水が、処々の川瀬にせかれて、淙々《そうそう》の響を揚げた。
黒木を売る大原女《おはらめ》の暢《の》びやかな声までが春らしい心を唆《そそ》った。江戸へ下る西国大名の行列が、毎日のように都の街々を過ぎた。彼等は三条の旅宿に二三日の逗留《とうりゅう》をして、都の春を十分に楽しむと、また大鳥毛《おおとりげ》の槍《やり》を物々しげに振立てて、三条大橋の橋板を、踏み轟《とどろ》かしながら、遙《はるか》な東路《あずまじ》へと下るのであった。
東国から、九州四国から、また越路《こしじ》の端からも、本山参りの善男善女《ぜんなんぜんにょ》の群が、ぞろぞろと都をさして続いた。そして彼等も春の都の渦巻の中に、幾日かを過すのであった。
その裡《うち》に、花が咲いたと云う消息が、都の人々の心を騒がし始めた。祇園《ぎおん》清水《きよみず》東山《ひがしやま》一帯の花が先《ま》ず開く、嵯峨《さが》や北山《きたやま》の花がこれに続く。こうして都の春は、愈々《いよいよ》爛熟《らんじゅく》の色を為《な》すのであった。
が、その年の都の人達の心を、一番|烈《はげ》しく狂わせていたのは、四条中島|都万太夫座《みやこまんだゆうざ》の坂田藤十郎と山下半左衛門座の中村七三郎との、去年から持越しの競争であった。
三ヶ津の総芸頭《そうげいがしら》とまで、讃《たた》えられた坂田藤十郎は傾城買《けいせいかい》の上手《じょうず》として、やつし[#「やつし」に傍点]の名人としては天下無敵の名を擅《ほしいまま》にしていた。が、去年霜月、半左衛門の顔見世《かおみせ》狂言に、東から上った少長《しょうちょう》中村七三郎は、江戸歌舞伎の統領として、藤十郎と同じくやつし[#「やつし」に傍点]の名人であった。二人は同じやつし[#「やつし」に傍点]の名人として、江戸と京との歌舞伎の為にも、烈しく相争わねばならぬ宿縁を、持っているのであった。
京の歌舞伎の役者達は、中村七三郎の都上りを聴いて、皆異常な緊張を示した。が、その人達の期待や恐怖を裏切って七三郎の顔見世狂言は、意外な不評であった。見物は口々に、
「江戸の名人じゃ、と云う程に、何ぞ珍らしい芸でもするのかと思っていたに、都の藤十郎には及び付かぬ腕じゃ」と罵《ののし》った。七三郎を譏《そ》しる者は、ただ素人《しろうと》の見物だけではなかった。彼の舞台を見た役者達までも、
「江戸の少長は、評判倒れの御仁じゃ、尤《もっと》も江戸と京とでは評判の目安も違うほどに江戸の名人は、京の上手にも及ばぬものじゃ。所詮《しょせん》物真似《ものまね》狂言は都のものと極わまった」と、勝誇るように云い振れた。が、七三郎を譏しる噂《うわさ》が、藤十郎の耳に入ると、彼は眉《まゆ》を顰《ひそ》めながら、
「われらの見るところは、また別じゃ。少長どのは、まことに至芸のお人じゃ。われらには、怖《おそ》ろしい大敵じゃ」と、只一人世評を斥《しりぞ》けたのであった。
二
果して藤十郎の評価は、狂っていなかった。顔見世狂言にひどい不評を招いた中村七三郎は、年が改まると初春の狂言に、『傾城《けいせい》浅間《あさま》ヶ|嶽《だけ》』を出して、巴之丞《とものじょう》の役に扮《ふん》した。七三郎の巴之丞の評判は、すさまじいばかりであった。
藤十郎は、得意の夕霧《ゆうぎり》伊左衛門を出して、これに対抗した。二人の名優が、舞台の上の競争は、都の人々の心を湧《わ》き立たせるに十分であった。が新しき物を追うのは、人心の常である。口性《くち
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