さが》なき京童《きょうわらべ》は、
「藤十郎どのの伊左衛門《いさえもん》は、いかにも見事じゃ、が、われらは幾度見たか数えられぬ程じゃ。去年の弥生《やよい》狂言も慥《たし》か伊左衛門じゃ。もう伊左衛門には堪能いたしておるわ。それに比ぶれば、七三郎どのの巴之丞は、都にて初ての狂言じゃ。京の濡事師《ぬれごとし》とはまた違うて、やさしい裡《うち》にも、東男《あずまおとこ》のきついところがあるのが、てんと堪《たま》らぬところじゃ」と口々に云い囃《はや》した。
動き易《やす》い都の人心は、十年|讃嘆《さんたん》し続けた藤十郎の王座から、ともすれば離れ始めそうな気勢《けはい》を示した。万太夫座の木戸よりも、半左衛門座の木戸の方へと、より沢山の群衆が、流れ始めていた。
春狂言の期日が尽きると、万太夫座は直《す》ぐ千秋楽になったにも拘《かかわ》らず、半左衛門座は尚《なお》打ち続けた。二月に入っても、客足は少しも落ちなかった。二月が終りになって、愈々《いよいよ》弥生狂言の季節が、近づいて来たのにも拘わらず、七三郎は尚巴之丞の役に扮して、都大路の人気を一杯に背負うていた。
「半左衛門座では、弥生狂言も『傾城浅間ヶ嶽』を打ち通すそうじゃが、かような例は、玉村千之丞|河内《かわち》通いの狂言に、百五十日打ち続けて以来、絶えて聞かぬ事じゃ。七三郎どのの人気は、前代|未聞《みもん》じゃ」と、巷《ちまた》の風説《うわさ》は、ただこの沙汰《さた》ばかりのようであった。
こうした噂《うわさ》が、かまびすしくなるにつれ、私《ひそか》に腕を拱《こまね》いて考え始めたのは、坂田藤十郎であった。
三ヶ津総芸頭と云う美称を、長い間享受して来た藤十郎は、自分の芸に就《つい》ては、何等の不安もないと共に、十分な自信を持っていた。過ぐる未年《ひつじどし》に才牛《さいぎゅう》市川団十郎が、日本随市川のかまびすしい名声を担《にの》うて、東《あずま》からはるばると、都の早雲長吉座《はやぐもちょうきちざ》に上って来た時も、藤十郎の自信はビクともしなかった。『お江戸団十郎見しゃいな』と、江戸の人々が誇るこの珍客を見る為めに、都の人々が雪崩《なだれ》を為《な》して、長吉座に押し寄せて行った時も、藤十郎は少しも騒がなかった。殊《こと》に、彼が初めて団十郎の舞台を見た時に、彼は心の中で窃《ひそか》に江戸の歌舞伎を軽蔑《けいべつ》した。彼は、団十郎が一流編み出したと云う荒事を見て、何と云う粗野な興ざめた芸だろうと思って、彼の腹心の弟子の山下京右衛門が、
「太夫《たゆう》様、団十郎の芸をいかが思召《おぼしめ》さる、江戸自慢の荒事とやらをどう思召さる」と訊《き》いた時、彼は慎《つつ》ましやかな苦笑を洩《もら》しながら「実事《じつごと》の奥義の解せぬ人達のする事じゃ。また実事の面白さの解せぬ人達の見る芝居じゃ」と、一言の下に貶《けな》し去った。が今度の七三郎に対しては、才牛をあしろうたようには行かなかった。
三
と、云って藤十郎は、妄《むげ》に七三郎を恐れているのではない。もとより、団十郎の幼稚な児騙《ちごだま》しにも似た荒事とは違うて、人間の真実な動作《しうち》をさながらに、模《うつ》している七三郎の芸を十分に尊敬もすれば、恐れもした。が、藤十郎は芸能と云う点からだけでは、自分が七三郎に微塵《みじん》も劣らないばかりでなく、寧《むし》ろ右際勝《みぎわまさ》りであることを十分に信じた。従って、今まで足り満ちていた藤十郎の心に不安な空虚と不快な動揺とを植え付けたのは、七三郎との対抗などと云う事よりも、もっと深いもっと本質的なある物であった。
彼は、二十の年から四十幾つと云う今まで、何の不安もなしに、濡事師《ぬれごとし》に扮《ふん》して来た。そして、藤十郎の傾城買《けいせいかい》と云えば、竜骨車《りゅうこしゃ》にたよる里の童にさえも、聞えている。また京の三座見物達も藤十郎の傾城買の狂言と言えば、何時もながら惜し気もない喝采《かっさい》を送っていた。彼が、伊左衛門の紙衣姿《かみこすがた》になりさえすれば、見物はたわいもなく喝采した。少しでも客足が薄くなると、彼は定まって、伊左衛門に扮した。しかも、彼の伊左衛門役は、トラムプの切札か何かのように、多くの見物と喝采とを、藤十郎に保証するのであった。
が、彼は心の裡《うち》で、何時《いつ》となしに、自分の芸に対する不安を感じていた。いつも、同じような役に扮して、舌たるい傾城を相手の台詞《せりふ》を云うことが、彼の心の中に、ぼんやりとした不快を起すことが度《たび》重なるようになっていた。が、彼は未《ま》だいいだろう、未だいいだろうと思いながら一日延ばしのように、自分の仕馴《しな》れた喝采を獲《う》るに極《きま》った狂言から、脱け出そ
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