った。今までの傾城買とは、裏と表のように、打ち変った狂言として、門左衛門が藤十郎に書与えた狂言は、浮ついた陽気なたわいもない傾城買の濡事とは違うて、命を賭《と》しての色事であった。打ち沈んだ陰気な、懸命な命を捨ててする濡事であった。芸題は『大経師《だいきょうじ》昔暦《むかしごよみ》』と云って、京の人々の、記憶にはまだ新しい室町《むろまち》通の大経師の女房おさんが、手代《てだい》茂右衛門《もえもん》と不義をして、粟田口《あわたぐち》に刑死するまでの、呪《のろ》われた命懸けの恋の狂言であった。
藤十郎の芸に取って、其処《そこ》に新しい世界が開かれた。がそれと同時に、前代|未聞《みもん》の狂言に対する不安と焦慮とは、自信の強い彼の心にも萌《きざ》さない訳には行かなかった。
五
藤十郎の心に、そうした屈託があろうとは、夢にも気付かない若太夫は、芝居国の国王たる藤十郎の機嫌《きげん》を、如何《いか》にもして取結ぼうと思ったらしく、
「この狂言に比べましては、七三郎殿の『浅間ヶ嶽』の狂言も童《わらべ》たらしのように、曲ものう見えまするわ。前代未聞の密夫《みそかお》の狂言とは、さすがに門左衛門様の御趣向じゃ。それに付けましても、坂田様にはこうした変った恋のお覚えもござりましょうなハハハハ」と、時にとっての座興のように高々と笑った。
今まで、おし黙っていた藤十郎の堅い唇《くちびる》が、綻《ほころ》びたかと思うと、「左様な事、何のあってよいものか」と、苦りきって吐き出すように云った。「藤十郎は、生れながらの色好みじゃが、まだ人の女房と念頃《ねんごろ》した覚えはござらぬわ」と、冷めたい苦笑を洩《もら》しながら付け加えた。若太夫は、座興の積《つもり》で云った諧謔《たわむれ》を、真向《まっこう》から突き飛ばされて、興ざめ顔に黙ってしまった。
傍に坐っていた切波千寿は、一座が白けるのを恐れたのであろう。取做《とりな》し顔に、微笑を含みながら、
「ほんに、坂田様の云われる通じゃ。この千寿とても、主ある女房と、念ごろした事はないわいな」と、云いながら女のように美しい口を掩《おお》うた。
が、藤十郎は、前よりも一際《ひときわ》、苦りきったままであった。彼は今心の裡で、僅《わず》か三日の後に迫った初日を控えて、芸の苦心に肝胆を砕いていたのである。彼に取って、其処《そこ》に可なり危険な試金石が横《よこた》わっている。『あれ見よ、密夫の狂言とは、名ばかりで相も変らぬ藤十郎じゃ』と、云われては、自分の芸は永久に廃《すた》れるのだと、彼は心の裡に、覚悟の臍《ほぞ》を堅めていた。ただ、相手の傾城が、人妻に変ったばかりで、昔ながらの藤十郎だとは、夢にも云わせてはならないと、心の裡に思い定めていた。
が、それかと云って、藤十郎は、自分で口に出して云った通、道ならぬ恋をした覚はさらさらなかったのである。元より、歌舞伎役者の常として、色子《いろこ》として舞台を踏んだ十二三の頃から、数多くの色々の色情生活を閲《けみ》している。四十を越えた今日までには幾十人の女を知ったか分らない。彼の姿絵を、床の下に敷きながら、焦《こが》れ死んだ娘や、彼に対する恋の叶《かな》わぬ悲しみから、清水《きよみず》の舞台から身を投げた女さえない事はない。が、こうした生活にも拘《かかわ》らず、天性|律義《りちぎ》な藤十郎は、若い時から、不義非道な色事には、一指をだに染めることをしなかった。そうした誘惑に接する毎《ごと》に、彼は猛然として、これと戦って来ている。彼が、役者にも似合わず『藤十郎殿は、物堅い御仁じゃ』と、云われて、芝居国の長者として、周囲から、尊敬されているのも、一つにはこうした訳からでもあった。
従って、彼は、過去の経験から、人妻を盗むような必死な、空恐ろしい、それと同時に身を焼くように烈《はげ》しい恋に近い場合を、色々と尋ねてみたが、彼のどの恋もどの恋も極めて正当な、物柔かな恋であって、冬の海のように恐ろしい恋や、夏の太陽のような烈しい恋の場合は、どう考えても頭に浮んでは来なかった。
六
傾城買《けいせいかい》の経緯《いきさつ》なれば、どんなに微妙にでも、演じ得ると云う自信を持った藤十郎も、人妻との呪《のろ》われた悪魔的な、道ならぬ然《しか》し懸命な必死の恋を、舞台の上にどう演活《しいか》してよいかは、ほとほと思案の及ばぬところであった。これまでの歌舞伎狂言と云えば、傾城買のたわいもない戯れか、でなければ物真似《ものまね》の道化に尽きていた為に、こうした密夫《みそかお》の狂言などに、頼《たのま》れるような前代の名優の仕残した型などは、微塵《みじん》も残っていなかった。それかと云って、彼はこうした場合に、打ち明けて智慧《ちえ》を借るべき、相
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