談相手を持っていなかった。彼の茂右衛門に、おさんを勤める切波千寿は、天性の美貌《びぼう》一つが、彼の舞台の凡《すべ》てであった。ただ、藤十郎の指図のままに、傀儡のごとく動くのが、彼の演伎《えんぎ》の凡てであったのだ。
 藤十郎は、自分自身の肝脳《あたま》を搾《しぼ》るより外には、工夫の仕方もなかったのである。
 藤十郎の不機嫌の背後に、そうした根本的な屈託が、潜んでいるとは気のつかない一座の人々は、白け始めようとする酒宴の座を、どうかして引き立たせようと、思ったのだろう、五十に手の届きそうな道化方の老優は、傍《そば》に坐っていた二十を出たばかりの、野良帽子《やろう》を着た美しい若衆方を促し立てながら、おどけた連舞《つれまい》を舞い始めた。
 藤十郎は、二人の舞を振向きもしないで、日頃には似ず、大杯を重ねて四度ばかり、したたかに飲み乾すと、俄《にわか》に発して来た酔に、座には得《え》堪《た》えられぬように、つと席を立ちながら、河原に臨んだ広い縁に出た。
 河原の闇《やみ》の底を流れる川水が、ほのかな光を放っている外は、晦日《みそか》に近い夜の空は曇って、星一つさえ見えなかった。声ばかり飛び交うているかのように、闇のなかに千鳥が、ちちと鳴きしきっていた。
 歌舞伎の長者として、王者のように誇を、持っていた藤十郎の心も、蹴合《けあわ》せに負けた鶏《とり》のように悄気《しょげ》きってしまっていた。彼が、座を立った為に、上からの圧迫の取れたように、急にはずみかけた酒宴の席のさわがしいどよめきを、後《あと》にしながら、彼は知らず知らず静寂な場所を求めて、勝手を知った宗清の部屋々々を通り抜けながら、奥の離座敷を志した。
 母屋《おもや》からは一段と、河原の中に突出ている離座敷には、人の気勢《けはい》もなかった。ただほんのりと灯《とも》っている、絹行燈《きぬあんどん》の光の裡に、美しい調度などが、春の夜に適《ふさわ》しい艶《なま》めいた静けさを保っていた。藤十郎は、人影の見えぬのを心の中に欣《よろこ》んだ。彼は、床の間に置いてあった脇息《きょうそく》を、取り下すと、それに右の肱《ひじ》を靠《もた》せながら、身を横ざまに伸したのである。
 が、騒々しい酒宴の席から、身を脱《のが》れた欣びは、直《す》ぐ消えてしまって、芸の苦心が再びひしひしと胸に迫って来る。明日からは稽古《けいこ》が始まる。肝腎要《かんじんかなめ》の茂右衛門の行き方が、定《きま》らいでは相手のおさんも、その他の人々もどう動いてよいか、思案の仕様もないことになる。己《おの》が工夫が拙《まず》うては、近松門左が心を砕いた前代未聞の狂言も、あたら京童の笑い草にならぬとも限らない。こう思いながら、藤十郎は胸の中に渦巻いている、もどかしさを抑えながら、一途《いちず》に心をその方へ振り向けようとあせった。
 その時である。母屋の方から、とんとんと離座敷を指して来る人の足音が、聞えて来た。

        七

 折角、さわがしい酒席を逃《のが》れて、求め得た静かな場所で、芸の苦心を凝らそうと思っていた藤十郎は、自分の方へ近づいて来る人の足音を聞いて、心持|眉《まゆ》を顰《しか》めぬ訳には行かなかった。
 が、近づいて来る足音の主は、此処《ここ》に藤十郎が居ようなどとは、夢にも気付かないらしく、足早に長い廊下を通り抜けて、この部屋に近づくままに、女性らしい衣《きぬ》ずれの音をさせたかと思うと、会釈もなく部屋の障子を押し開いた。が、其処《そこ》に横たわっていた藤十郎の姿を見ると、吃驚《びっくり》して敷居際《しきいぎわ》に立ち竦《すく》んでしまった。
「あれ、藤《とう》様はここにおわしたのか。これはこれはいかい粗相を」と、云いながら、女は直ぐ障子を閉ざして、去ろうとしたが、又立ち直って、「ほんに、このように冷える処で、そうして御座って、御|風邪《かぜ》など召すとわるい。どれ、私が夜のものをかけて進ぜましょう」と、云いながら、部屋の片隅《かたすみ》の押入から、夜具を取り下ろそうとしている。
 藤十郎は、最初足音を聞いた時、召使の者であろうと思ったので、彼は寝そべったまま、起き直ろうとはしなかった。が、それが意外にも、宗清の主人|宗山清兵衛《むねやませいべえ》の女房お梶《かじ》であると知ると、彼は起き上って、一寸《ちょっと》居ずまいを正しながら、
「いやこれは、いかい御雑作じゃのう」と、会釈をした。
 お梶は、もう四十に近かったが、宮川町の歌妓《うたいめ》として、若い頃に嬌名《きょうめい》を謳《うた》われた面影が、そっくりと白い細面の顔に、ありありと残っている。浅黄絖《あさぎぬめ》の引《ひき》かえしに折びろうどの帯をしめ、薄色の絹足袋《きぬたび》をはいた年増《としま》姿は、又なく艶《えん》に美しかっ
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング