しゃ》った事は、皆本心かいな」
 女の声は、消え入るようであった。その唇が微《かす》かに痙攣《けいれん》した。
「何の、てんごう[#「てんごう」に傍点]を云うてなるものか、人妻に云い寄るからは、命を投げ出しての恋じゃ」と、いうかと思うと、藤十郎の顔も、さっと蒼白《そうはく》に変じてしまった。浮腰になっている彼の膝《ひざ》が、かすかに顫《ふる》いを帯び始めた。
 必死の覚悟を定めたらしいお梶は、火のような瞳で、男の顔を一目見ると、いきなり傍の絹行燈の灯を、フッと吹き消してしまった。
 恐ろしい沈黙が、其処《そこ》にあった。
 お梶は、身体中の毛髪が悉《ことごと》く逆立《さかだ》つような恐ろしさと、身体中の血潮が悉く湧《わ》き立つような情熱とで、男の近寄るのを待っていた。が、男の苦しそうな息遣《いきづか》いが、聞えるばかりで、相手は身動きもしないようであった。お梶も居竦んだまま、身体をわなわなと顫わせているばかりであった。
 突如、藤十郎の立ち上る気勢《けはい》がした。お梶は、今こそと覚悟を定めていた。が、男はお梶の傍を、影のようにすりぬけると、灯のない闇《やみ》を、手探りに廊下へ出たかと思うと、母屋の灯影を目的《めあて》に獣《けもの》のように、足速く走り去ってしまったのである。
        ×
 闇の中に取残されたお梶は、人間の女性が受けた最も皮肉な残酷な辱《はずか》しめを受けて、闇の中に石のように、突立っていた。
 悪戯《いたずら》としては、命取りの悪戯であった。侮辱としては、この世に二つとはあるまじい侮辱であった。が、お梶は、藤十郎からこれ程の悪戯や侮辱を受くる理由《いわれ》を、どうしても考え出せないのに苦しんだ。それと共に、この恐ろしい誘惑の為に、自分の操を捨てようとした――否、殆《ほとん》ど捨ててしまった罪の恐ろしさに、彼女は腸《はらわた》をずたずたに切られるようであった。

        一一

 酒宴の席に帰った藤十郎は、人間の面《かお》とは思えないほどの、凄《すさま》じい顔をしていた。が、彼は、勧められるままに大盃を五つ六つばかり飲み乾《ほ》すと、血走った眼に、切波千寿《きりなみせんじゅ》の方を向きながら、
「千寿どの安堵《あんど》めされい。藤十郎、この度《たび》の狂言の工夫が悉く成り申したわ」と云いながら、声高《こわだか》に笑って見せた。が、その声は、地獄の亡者《もうじゃ》の笑い声のようにしわがれた空《から》っぽな、気味の悪い声であった。
        ×
 弥生《やよい》朔日《ついたち》から、万太夫座では愈々《いよいよ》近松門左が書き下しの狂言の蓋《ふた》が開かれた。藤十郎の茂右衛門と切波千寿のおさんとの密夫《みそかお》の狂言は、恐ろしきまで真に迫って、洛中《らくちゅう》洛外の評判かまびすしく、正月から打ち続けて勝ち誇っていた山下座の中村七三郎の評判も、月の前の螢火《ほたるび》のように、見る影もなく消されてしまった。
 が、この興行の評判に連れて、京童《きょうわらべ》の口にこうした※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話《そうわ》が伝えられた。それは、『藤十郎殿は、この度の狂言の工夫には、ある茶屋の女房に偽って恋をしかけ、女が靡《なび》いて灯を吹き消す時、急いで逃《のが》れたとの事じゃが、さすがは三国一の名人の心掛だけある』と云う噂《うわさ》であった。
『偽にもせよ、藤十郎殿から恋をしかけられた女房も、三国一の果報者じゃ』と、艶《なま》めいた京の女達は、こう云い添えた。
 こうした噂までが、愈《いや》が上に、この狂言の人気を唆《そそ》った。
 来る日も、来る日も、潮《うしお》のような見物が明け方から万太夫座の周囲に渦を巻いていた。
 弥生の半ばであったろう。或朝、万太夫座の道具方が、楽屋の片隅《かたすみ》の梁《はり》に、縊《くび》れて死んだ中年の女を見出《みいだ》した。それは、紛れもなく宗清《むねせい》の女房お梶であった。お梶は、宗清とは屋続きの万太夫座に忍び入って、其処を最期の死場所と定めたのである。その死因に就《つい》ても、京童は色々に、口性《くちさが》ない噂を立てた。が誰人《たれ》も藤十郎の偽りの恋の相手が、貞淑の聞え高いお梶だとは思いも及ばなかった。
 ただ、お梶の死を聴いた藤十郎は、雷に打たれたように色を易《か》えた。が彼は心の中《うち》で、
『藤十郎の芸の為には、一人や二人の女の命は』と、幾度も力強く繰り返した。が、そう繰り返してみたものの、彼の心に出来た目に見えぬ深手は、折にふれ、時にふれ彼を苛《さいな》まずにはいなかった。
 お梶が、楽屋で縊れた事までが、万太夫座の人気を培《つちか》った。
 お梶が、死んで以来、藤十郎の茂右衛門の芸は、愈々|冴《さ》えて
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