ゃ。そなたを、世にも稀《まれ》な美しい人じゃと、思い染めたのは」と、藤十郎は、お梶の方へ双膝《もろひざ》を進ませながら、必死の色を眸《ひとみ》に浮べて、こう云いきった。
藤十郎に呼び止められた時から、ある不安な期待に、胸をとどろかせていたお梶は最初はこの美しい男の口から、自分達の華《はな》やかな青春の日の、想出話《おもいでばなし》を聴かされて、魅せられたように、ほのぼのと二つの頬《ほお》を薄紅に染めていたが、相手の言葉が、急な転回を示してからは、その顔の色は刹那に蒼《あお》ざめて、蹲くまっている華奢《きゃしゃ》な身体《からだ》は、わなわなと戦《おのの》き始めていた。
藤十郎は、恋をする男とは、どうしても受取れぬ程の、澄んだ冷たい眼付で、顔さえ擡《もた》げ得ぬ女を刺し透《とお》す程に、鋭く見詰めていながら、声だけには、烈しい熱情に顫《ふる》えているような響を持たせて、
「そなたを見染めた当座は、折があらば云い寄ろうと、始終念じてはいたものの、若衆方の身は親方の掟《おきて》が厳《きび》しゅうて、寸時も心には委《まか》せぬ身体じゃ。ただ心は、焼くように思い焦《こが》れても、所詮《しょせん》は機《おり》を待つより外はないと、諦《あきら》めている内に、二十の声を聞くや聞かずに、そなたは清兵衛殿の思われ人となってしまわれた。その折のわれらが無念は、今思い出しても、この胸が張り裂くるようでおじゃるわ」こう云いながら、藤十郎は座にもえ堪《た》えぬような、巧みな身悶《みもだ》えをして見せたが、そうした恋を語りながらも、彼の二つの眸だけは、相変らず爛々《らんらん》たる冷たい光を放って、女の息づかいから容子《ようす》までを、恐ろしきまでに見詰めている。
お梶の顔の色は、彼女の心の恐ろしい激動をさながらに、映し出していた。一旦蒼ざめきってしまった色が、反動的に段々薄赤くなると共に、その二つの眼には、熱病患者に見るような、直《すぐ》にも火が点《つ》きそうな凄《すさま》じい色を湛《たた》え始めた。
「人妻になったそなた[#「そなた」に傍点]を恋い慕うのは人間のする事ではないと、心で強《きつ》う制統しても、止まらぬは凡夫の想じゃ。そなたの噂《うわさ》を聴くにつけ、面影を見るにつけ、二十年のその間、そなた[#「そなた」に傍点]の事を忘れた日は、ただ一日もおじゃらぬわ」彼は、一語一語に、一句一句に巧な、今までの彼の舞台上の凡《すべ》ての演戯にも、打ち勝《まさ》った程の仕打を見せながら、しかも人妻をかき口説く、恐怖《おそれ》と不安とを交えながら、小鳥のように竦《すく》んでいる女の方へ、詰め寄せるのであった。
「が、この藤十郎も、人妻に恋をしかけるような非道な事は、なすまじいと、明暮燃え熾《さか》る心をじっと抑えて来たのじゃが、われらも今年四十五じゃ、人間の定命《じょうみょう》はもう近い。これ程の恋を――二十年来|偲《しの》びに偲んだこれ程の想を、この世で一言も打ち明けいで、何時《いつ》の世誰にか語るべきと、思うに付けても、物狂わしゅうなるまでに、心が擾《みだ》れ申して、かくの有様じゃ。のう、お梶どの、藤十郎をあわれと思召《おぼしめ》さば、たった一言情ある言葉を、なあ……」と、藤十郎は狂うばかりに身悶えしながら、女の近くへ身をすり寄せている。ただ恋に狂うている筈《はず》の、彼の瞳《ひとみ》ばかりは、刃《やいば》のように澄みきっていた。
余りの激動に堪《た》えかねたのであろう、お梶は、
「わっ」と、泣き俯《ふ》してしまった。
一〇
恐ろしい魔女が、その魅力の犠牲者を、見詰めるように、藤十郎は泣き俯したお梶を、じっと見詰めていた。彼の唇《くちびる》の辺には、凄《すさま》じい程の冷たい表情が浮んでいた。が、それにも拘《かかわ》らず、声と動作とは、恋に狂うた男に適《ふさわ》しい熱情を、持っている。
「のう、お梶どの。そなたは、この藤十郎の恋を、あわれとは思《おぼ》さぬか。二十年来、堪《た》え忍んで来た恋を、あわれとは思さぬか。さても、強《きつ》いお人じゃのう」こう云いながら、藤十郎は、相手の返事を待った。が、女はよよと、すすり泣いているばかりであった。
灯《ひ》を慕って来た千鳥だろう。銀の鋏《はさみ》を使うような澄んだ声が、瀬音にも紛れず、手に取るように聞えて来る。女も藤十郎も、おし黙ったまま、暫《しばら》くは時刻《とき》が移った。
「藤十郎の切ない恋を、情《つれ》なくするとは、さても気強いお人じゃのう、舞台の上の色事では日本無双の藤十郎も、そなた[#「そなた」に傍点]にかかっては、たわいものう振られ申したわ」と藤十郎は、淋《さび》しげな苦笑を洩《もら》した。
と、今まで泣き俯していた女は、ふと面《おもて》を上げた。
「藤様、今|仰《おっ
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング