たえ》の両面芥子人形《ふたつめんけしにんぎょう》の加賀紋《かがもん》の羽織を打ちかけ、宗伝唐茶《そうでんからちゃ》の畳帯をしめていた。藤十郎の右に坐っているのは、一座の若女形《わかおやま》の切波千寿《きりなみせんじゅ》であった。白小袖《しろこそで》の上に、紫縮緬の二つ重ねを着、虎膚天鵞絨《とらふびろうど》の羽織に、紫の野良帽子《やろう》をいただいた風情《ふぜい》は、さながら女の如く艶《なま》めかしい、この二人を囲んで、一座の道化方、くゎしゃ[#「くゎしゃ」に傍点]方、若衆方などの人々が、それぞれ華美な風俗の限を尽して居並んでいた。その中に、只一人千筋の羽織を着た質素な風俗をした二十五六の男は、万太夫座の若太夫であった。彼は、先刻から酒席の間を、彼方此方《あっちこっち》と廻って、酒宴の興を取持っていたが、漸《ようや》く酩酊《めいてい》したらしい顔に満面の微笑を湛《たた》えながら、藤十郎の前に改めて畏《かしこ》まると、恐る恐る酒盃《さかずき》を前に出した。
「さあ、もう一つお受け下されませ。今度の弥生狂言は、近松様の趣向で、歌舞伎始まっての珍らしい狂言じゃと、都の中はただこの噂ばかりじゃげにござります。傾城買の所作《しょさ》は日本無双と云われた御身様《おみさま》じゃが、道ならぬ恋のいきかた[#「いきかた」に傍点]は、又格別の御思案がござりましょうなハハハハ」と、巧な追従《ついしょう》笑いに語尾を濁した。と、藤十郎と居並んでいる切波千寿は、急に美しい微笑を洩《もら》しながら、
「ホンに若太夫殿の云う通じゃ。藤十郎様には、その辺の御思案が、もうちゃんと付いている筈《はず》じゃ。われなどは、ただ藤十郎様に操《あやつ》られて傀儡《くぐつ》のように動けばよいのじゃ」と、合槌《あいづち》を打った。
藤十郎は、若太夫の差した酒盃を、受け取りはしたものの、彼の言葉にも、千寿の言葉にも、一言も返しをしなかった。彼は、酒の味が、急に苦くなったように、心持顔を顰《しか》めながら、グット一気にその酒盃を飲み乾《ほ》したばかりであった。
彼は、今宵《こよい》の酒宴が、始まって以来、何気ない風に酒盃を重ねてはいたものの、心の裡《うち》には、可なり烈しい芸術的な苦悶《くもん》が、渦巻いているのであった。
彼が、近松門左衛門に、急飛脚を飛ばして、割なく頼んだことは、即座に叶《かな》えられたのであ
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