いたかと思うと、いいにくそうに、
『旦那はん。あの指輪《ゆびはめ》、取っても大事おまへんか』と、こういうのです。
『指輪! 指輪が、どうしたのだ』
 お主婦は、ちょっと追従笑いをしていましたが、
『へえ。あの子供がはめておりますんで』
 僕はそうきいたときに、妙な悪感を感ぜずにはいられなかったのです。
『じゃ、あの死体の指にはいっている指輪を欲しいというのだな』
『へえ! さよで』
 僕は、頭から怒鳴りつけてやりたいと思ったのです。が、しかし、検事としての理性が僕の感情を抑えたのです。死体から、指輪を剥ぎ取るということ、それは普通な人情からいえば、どんな債権債務の関係があるにしたところで人間業ではないような恐ろしいことです。けれども、法律的にいえば、それは単に物の位置を移すということに過ぎないのです。
『よろしい』
 僕は、そう苦《にが》り切って答えるほかはなかったのです。お主婦は、一人では怖いからといって、刑事に付いてもらって、死体の置いてある部屋の方へ行きました。
 お主婦の姿を見送った僕の心は、憤懣とも悲しみとも、憂愁ともつかない、妙な重くるしい、そのくせ張り裂けるような感情で、
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