いっぱいになっていたのです。
 普通の人間が死んだ場合は、たとえ息は絶えていても、あたかも生あるもののごとくに、生前以上に尊敬され、待遇されるのに、彼女は――生前もがきにもがいた彼女は、嘖《さいな》まれた上にも嘖まれた彼女は――息が絶えると同時に、物自体のように取り扱われ、身に付けていた最後の粉飾物を、生前彼女を苦しめ抜いた楼主に奪われなければならぬかと思うと、彼女の薄命に対する同情の涙が、僕の目の中に汪然と湧いて来るのを、どうすることもできなかったのです。
 お主婦《かみ》は、やがて指輪を抜いてきました。見ると、それは高々八、九円するかしないかの、十四金ぐらいの蒲鉾《かまぼこ》形の指輪なのです。僕はそのときむらむらとして、こんなことをいったのです。
『お前、その指輪を、どうするのだ』
 お主婦は、おどおどしながら、
『あの子供に、借金が仰山《ぎょうさん》ありますけに、これでも売って、足しにしようと思うているのです』
『そうか。じゃ、誰かに売るんだな。売るのなら俺に売ってくれんか。何程ぐらいするんだ。十円なら安くないだろう』
『へえへえ。結構どす。けど、何やってこんなものをお買いになる
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