戦ぶりには信綱以下大いに困却したに相違ない。信綱は止むなく城中を探ろうと、西下途次、近江甲賀から連れて来た忍びの者達に、探らしめたが、城内の者は皆切利支丹の文句を口にするので、一向心得のない忍びの者達は、城中にまぎれ住む事が出来ない。これも亦失敗であった。
さて籠城軍も、寄手の持久の策に困惑して来た。四郎時貞、五奉行等と議して、
「我が弾丸兵糧も残少なくなって来た。我軍の力|猶《なお》壮んなる今、敵営を襲って、武器糧米を奪うに如くはない。細川の陣は塁壁堅固の上に銃兵多いから、之を討てば味方に死傷が多かろう。有馬、立花の陣は地形狭くして馳駆するに利なく、結局特に鍋島、寺沢、黒田の三陣を襲わん。出づる時には刀槍の兵を前にし、退く時は銃隊を後にし、かけ言葉はマルと相呼ばん」と定めた。
二十一日の夜、朧《おばろ》月夜に暗い二の丸の櫓《やぐら》に、四郎出で立って、静かに下知を下した。
黒田の陣へは、蘆塚忠兵衛、大江の源右衛門、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千四百、寺沢の営へは、相津玄察、大矢野三左衛門、有馬の治右衛門始め六百人、池田清左衛門、千々岩の五郎左衛門、加津佐の三平以下一千人は
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