鍋島の営へ、夫々粛々と進み近づくや、一斉に鬨を挙げ火を竹束につけたのを投げ込んだ。
用心はして居ても不意の夜襲であるから、黒田藩の家老黒田監物は討たれて形勢非であったが、黒田隆政自ら槍を揮って宗徒三人を突伏せ更に、刀を執って進み、「隆政これに在り」と叫んで衆を励まして漸く追い払った。
監物の子作左衛門、松炬《たいまつ》を照して父の屍《かばね》を見て居たが、自らも従士五六十を率いて突入して果てたと云う。
寺沢の陣でも騒動したが、三宅藤右衛門、白柄の薙刀《なぎなた》を揮って三人を斬り、創《きず》を被るも戦うのを見て諸士亦奪戦して斥けた。藤右衛門は、本戸の役に自刃した藤兵衛の子であるから仇討ちをしたわけになる。宗徒勢を討つこと三百人余であった。
信綱、氏鉄、夜討ちの現場を視察して、城兵の死骸の腹を割《さ》かしめて検した処が、海草の類を見出した。これによって、城内の兵糧少ないのを知ったのである。
聖旗原城頭※[#「てへん+確のつくり」、第4水準2−13−36]落之事
城中の糧食尽きたのを知った信綱は、諸将を会して攻撃の方略を議した。其頃、上使の一人として出陣した水野日向守|勝成《かつしげ》は、「我若き時、九州に流浪して原城の名城なるを知る。神祖家康公が高天神城を攻めた時の如く、兵糧攻めに如くはない」
と云いも終らず、戸田氏鉄は、
「然らば糧尽くるを待とう」
と云った。勝成大声に、
「既に今日まで百日余の遠巻きをした。糧尽きたのは明かだ、今はただ攻めんのみ」
と怒号した。
氏鉄は又、
「さらば城に近い細川鍋島の勢をして攻め、他は鬨を合しめよう」と云うと、勝成嘲笑って、
「我十六歳にして三州|小豆坂《あずきざか》に初陣《ういじん》して以来五十余戦、未だ鬨の声ばかりで鶏軍した覚えがない。諸軍力を協《あわ》せずして如何《いかん》ぞ勝とうや。老人の長居は無用、伜美作守勝俊も大阪陣大和口にて、後藤又兵衛出張の時名を挙げた者だ。御相談の役には立つ筈」と云い棄てて起って仕舞った。
ここに於て、軍議は二十五日総攻撃と定《きま》ったのである。当時城内の武備の有様を見るに石火矢八十挺、二三十目玉から五十目玉までの大筒百挺、十匁玉より二十目玉までの矢風筒《やかぜづつ》三百挺、六匁玉筒千挺、弓百張、長柄五百本、槍三百本、具足二百領、其他とあるから、相当なものであ
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