島原の乱
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)千束《せんぞく》島
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天草|上島《かみじま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JISX0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+確のつくり」、第4水準2−13−36]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ゆめ/\
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切支丹宗徒蜂起之事
肥後の国宇土の半島は、その南方天草の諸島と共に、内海八代湾を形造って居る。この宇土半島の西端と天草|上島《かみじま》の北端との間に、大矢野島、千束《せんぞく》島などの島が有って、不知火《しらぬい》有明の海を隔てて、西島原半島に相対して居るのである。
天正十五年、豊臣秀吉が薩摩の島津義久を征した時、九州全土に勢威盛んであった島津も、東西の両道を南下する豊臣勢には敵すべくもなく、忽《たちま》ち崩潰《ほうかい》した程であるから、沿道の小名|郷士《ごうし》の輩は風《ふう》を望んで秀吉の軍門に投じたのであった。
秀吉は此一円を、始め小西行長に属せしめたが、郷士土民はよく豊臣の制令に服従した。
徳川の天下となった後も、これらの郷士の子孫達は、豊臣の恩顧を想って敢て徳川幕府に仕うる事なく、山間漁村に隠れて出でようとはしなかったのである。
行長の遺臣益田甚兵衛|好次《よしつぐ》はそれら隠棲の浪士の一人である。始め肥後宇土郡|江辺《えべ》村に晴耕雨読の生活を送ること三十余年であったが、寛永十四年即ち天草島原の切利支丹一揆の乱が起った年の夏、大矢野島に渡り越野浦に移り住んで居た。元来行長は切利支丹宗の帰依者であったから、その家臣も多くこの教《おしえ》を奉じて居たのであって、益田好次も早くより之を信じて居た。天正十八年末、徳川幕府は全国に亙って切利支丹、法度《はっと》たるべき禁令を布《し》いた。これより宗門の徒の迫害を受けること甚だしく、幾多の殉教哀史をとどめて居ること世人の知るが如くである。
九州の地は早くから西洋人との交渉があったから、キリスト教も先ず、この地に伝わった。伝来の年が西暦一五四九年、島原の乱が同じく一六三七年であるから此間九十年近い歳月がある。この長い年月に亙っての、宣
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