教師を始めとした熱烈な伝道は、国禁を忍んで秘かに帰依する幾多の信徒をつくった。当時海外折衝の要地であった長崎港を間近に控えた島原天草の地には勿論、苫屋《とまや》苫屋の朝夕に、密《ひそ》かな祈りがなされ、ひそかに十字が切られた。
大矢野島の益田好次に男子があった。名は四郎、五歳にして書を善くし、天性の英資は人々を驚嘆させた。幼にして熊本の一藩士の小姓となったが、十二三の頃辞して長崎に出て明人に雇われた。ある時一明人、四郎の風貌を観《み》て此子は市井に埋まる者でない。必ず天下の大事を為すであろう、と語ったと云う。父好次の下に帰ったのが寛永十四年、年|漸《ようや》く十六であったが、英敏の資に加うるに容資典雅にして挙動処女の如くであった。当時は、美少年尊重の世であったから、忽ち衆人讃仰の的《まと》となった。この弱冠の一美少年こそは、切利支丹一揆の総帥《そうすい》となった天草四郎時貞である。
当時島原一円の領主であった松倉|重次《しげつぐ》は惰弱の暗君で、徒《いたず》らに重税を縦《ほしいまま》にした。宗教上の圧迫も残虐で宗徒を温泉《うんぜん》(雲仙嶽)の火口へ投げ込んだりした。領主の暴政に、人心離反して次第に動揺し、流言|蜚語《ひご》また盛んに飛んだ。――病身がちであった将軍家光は既に薨《こう》じているが、未だ喪を発しないのだとか、この冬には両肥の国に兵革疫病が起って、ただ天主を信ずる者|丈《だけ》が身を全うし得るであろうとか、紛々たる流言である。四郎時貞が父と共に住居して居る大矢野島に並んだ千束島に、大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江源右衛門、森宗意、山善左衛門と云う五人の宗門長老の者達が居た。これ等はこの島に隠れる事二十六年、熱心な伝道者であったが、嘗《か》つては益田好次同様豊臣の恩顧を受けた者である。
この年の夏彼等は人心の動揺に乗じて、「慶長の頃天草|上津浦《かみつうら》の一|伴天連《ばてれん》が、国禁によって国外へ追放された時の遺言に、今より後二十六年、天帝天をして東西の雲を焦さしめ、地をして不時の花を咲かしめるであろう。国郡騒動して人民困窮するけれども、天帝は二八の天章をこの地に下し、宗門の威を以って救うであろうとあるが、今年は正にその時に当る」と流言を放った。丁度この夏は干魃《かんばつ》で烈日雲を照し、島原では深江村を始め時ならぬ桜が開いたりしたから、人民
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