の暴政を綿々として訴え、信仰の変え難きを告げ、
「みな極楽安養すべきこと、何ぞ疑ひこれあるべく候|哉《や》、片時も今生の暇、希《こいねが》ふばかりに候」と結んで居る。
 智慧伊豆の謀略をもってしても、今は決戦する丈の道しか残されて居なかった。
 十日頃、城中に於て度々太鼓が鳴り響いて舞踊をして歌を歌う者がある。寄手耳を傾けて聴いてみると次の様な文句である。
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かゝれ、かゝれ、寄衆《よせしゅう》もつこてかゝれ、寄衆鉄砲の玉のあらん限りは、
とんとと鳴るは、寄衆の大筒、ならすとみしらしよ、こちの小筒で、
有りがたの利生《りしょう》や、伴天連様の御影で、寄衆の頭を、すんと切利支丹。
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 十一日、寄手は、地下より角道を掘って城際《しろぎわ》に到ろうと試みると、城の方でも地下道を掘って来る始末である。日暮れた頃、城中三の丸辺から火が挙がるのを寄手見て失火であろうと推測したが、豈《あに》計らんや生木生草を焼いて、寄手の地下道をくすべて居たのであった。
 其後、この地下道へ、糞尿を流し込んで、寄手をして辟易《へきえき》せしめたりした。楠《くすのき》流の防戦ぶりには信綱以下大いに困却したに相違ない。信綱は止むなく城中を探ろうと、西下途次、近江甲賀から連れて来た忍びの者達に、探らしめたが、城内の者は皆切利支丹の文句を口にするので、一向心得のない忍びの者達は、城中にまぎれ住む事が出来ない。これも亦失敗であった。
 さて籠城軍も、寄手の持久の策に困惑して来た。四郎時貞、五奉行等と議して、
「我が弾丸兵糧も残少なくなって来た。我軍の力|猶《なお》壮んなる今、敵営を襲って、武器糧米を奪うに如くはない。細川の陣は塁壁堅固の上に銃兵多いから、之を討てば味方に死傷が多かろう。有馬、立花の陣は地形狭くして馳駆するに利なく、結局特に鍋島、寺沢、黒田の三陣を襲わん。出づる時には刀槍の兵を前にし、退く時は銃隊を後にし、かけ言葉はマルと相呼ばん」と定めた。
 二十一日の夜、朧《おばろ》月夜に暗い二の丸の櫓《やぐら》に、四郎出で立って、静かに下知を下した。
 黒田の陣へは、蘆塚忠兵衛、大江の源右衛門、布津の大右衛門、深江の勘右衛門以下千四百、寺沢の営へは、相津玄察、大矢野三左衛門、有馬の治右衛門始め六百人、池田清左衛門、千々岩の五郎左衛門、加津佐の三平以下一千人は
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