らぬ器量があり、兄は重厚、弟は俊敏であったが、つまらない貧乏くじを引き当てたのである。

       松平信綱謀戦之事

 松平伊豆守信綱(此時四十二)が、改めて征討の正使として、嫡男甲斐守輝綱(此時十八)以下従士千三百を率いて西下したのは、寛永十四年|極月《ごくげつ》二十八日であった。副使は美濃大垣の城主戸田左門|氏鉄《うじてつ》(此時年六十一)。明けて十五年の正月四日、有馬表に着陣したのであるが、直ちに軍令を発し陣法を厳重にした。老中の指揮であるから従軍の諸大名も、今度は板倉重昌の場合の様に、馬鹿にするわけにはゆかない。
 十日、信綱は海上から鉄砲で城を撃たせたが、船が少ない上に城は高く思う様にならない。そこで大船を求めしめた処が、丁度平戸沖に阿蘭陀《オランダ》船が碇泊しているのを知った。直ちに廻送せしめ、城へ石火矢《いしびや》を放たせた。阿蘭陀は当時新教でカソリック教とは新旧の違いこそあれ同じ宗教の為に闘って居る城へ、大砲を撃ち込むのは心苦しかったであろうが、何しろ当時の日本政府の命令だから止むを得ない。「智慧伊豆ともあろうものが、外国船の力を借りて城を攻めるとは、国の恥を知らないものか」手厳しい批評を城中で為して居る者が居る。が、宗徒はスペインなどからの援兵をひそかに期待していたかも知れぬから、外船からの攻撃は兵気を阻喪させたに違いない。
 信綱は持久の策を執る決心をして居たから、兵糧米を充分に取寄せて諸軍に分った。二月初旬には、九州の諸大名も新手をもって来り会したから、信綱は令して諸軍の陣所を定めた。即ち北岡浜上り西南へ二百二十六間を熊本藩、次の十九間を柳川藩、次九間島原藩、次に十九間久留米藩、次百九十三間佐賀藩、次四十間唐津藩、次三百間は松平忠之兄弟、長蛇の陣はひしひしと原城をとり囲んだのである。信綱、氏鉄並に、板倉重矩等は中軍を形造り軍《いくさ》目付馬場利重を熊本勢へ、同牧野|成純《なりずみ》を柳川、久留米、島倉の営へ、榊原|職允《よりみつ》を佐賀の陣へ、林勝正を福岡唐津の軍へ、夫々遣わして、本営との連絡を厳重にした。更に信綱は各陣に指図して、高い井楼を築かしめた。井楼の上から城を俯して矢丸を射込もう策戦である。
 信綱は更に城中の大将四郎の甥小平をして、小左衛門の手紙を持って城内に入らしめた。その手紙の趣と云うのは、
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