父が討死の処に死のうとの血相|凄《すさ》まじい有様を貞清見て、貝を吹いて退軍を命じ、犬死を誡《いまし》めて、切歯するのを無理に伴い帰った。全線に亙り戦いも午刻には終ったが、寄手は四千余の死傷を出した上に大将を討たせた様な始末である。之に引かえ城中の死傷は僅に百に満たなかったのであった。
 始め幕命を受けて直ちに板倉重昌江戸を出発した時、柳生但馬守宗矩、折柄有馬玄頭邸で能楽を見物して居たが、この由を耳にするや、席を外《はず》して出で、馬に乗って重昌の後を追った。品川を駆け抜け川崎まで走りかけたが、ついに追い着く事が出来なかった。日も暮れて仕舞ったので、止むなく引返した宗矩は、登営して将軍に謁し、至急上使を変えんことを乞うた。台命《たいめい》を論議する言であるというので、家光の不興は甚しい。一言も下さずに奥へ立った後を、夜半に及ぶまで宗矩は端然と黙坐したまま退かない。我を折った家光は、ついに宗矩の言を聴いて見るとこうである。
「凡《およ》そ宗門の徒は深く教を信じ、身命を軽じても改《か》えない事武士の節義に於けると異ならない位である。織田信長の兵威をもってして、如何に本願寺の宗徒、或は伊勢長島、三河の一向一揆に手を焼いたかを見てもわかる次第だ。内膳正重昌、若い頃、大阪陣に大任を果したから、百姓一揆何程の事あろうと思召されようが、それは大違いである。且亦、重昌人物たりと雖《いえど》も三河深沢に僅か一万五千石の小名に過ぎない。恐らくは、細川の五十四万石、有馬の二十一万石、立花の十一万石等々の九州の雄藩は、容易に重昌の下命に従わないであろう。その為に軍陣はかばかしからず、更に新に権威ある者を遣すことにでもなった暁、重昌何の面目あって帰ろうや。あたら惜しき武士一人殺したり」情理整然とした諫言《かんげん》に、流石《さすが》の家光も後悔したけれども及ばなかった。悲しい事には、宗矩の言一々的中したのであった。重昌出陣に際して書残したものに、次の如く誌《しる》されてあった。
[#ここから1字下げ]
去年の今日《こんにち》は江城に烏帽子《えぼし》の緒をしめ、今年《こんねん》の今日は島原に甲の緒をしむる。誠に移り変れる世のならひ早々打立候。
   あら玉の年の始に散る花の
      名のみ残らばさきがけと知れ
[#ここで字下げ終わり]
 重昌の志や悲壮である。名所司代板倉重宗の弟で、兄に劣
前へ 次へ
全17ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング