を打ち破る事は出来たが、城中の戦略は十二月の時と同じく、弾丸弓矢大石の類は雨の如くである。卯の上刻頃には、先鋒有馬勢が崩れたのを切っかけに、鍋島勢、松倉勢、みな追い落された。立花勢は友軍の苦戦をよそに進軍しないから、貞清之を促すと、「諸軍の攻撃によって城は今に陥るであろうが、敵敗走の際に我軍之を追わんが為である。且つ旧臘《きゅうろう》我軍攻撃に際しては諸軍救授を為さなかったから、今日は見物させて戴く事にする」と云う挨拶である。一旦退いた松倉勢も再び攻めようとはしないので、重昌馬を飛ばして、「今度の大事、松倉が平常の仕置き悪しきが故である。天下に恥じて殊死すべき処を、何たる態である」と、詰問したけれども動く気色《けしき》もない。板倉重昌、石谷貞清両人の胸中の苦悩は察するに余りある。重昌意を決して単身駆け抜けようとするのを石倉貞清止め諫めると、重昌、我等両人率先して進み、諸軍を奮起させるより途《みち》はないと嘆いた。進軍して諸軍を顧みるが誰も応じようとしない。従うはただ家臣だけである。重昌その日の出立《いでたち》は、紺縅鎧《こんおどしのよろい》に、金の采配を腰に帯び、白き絹に半月の指物さし、当麻《とうま》と名づける家重代の長槍を把《と》って居た。城中の兵、眺め見て大将と認め、斬って出る者が多い。小林久兵衛前駆奮撃して重昌を護《まも》るが、丸石落ち来って指物の旗を裂き竿《さお》を折った。屈せず猶《なお》進んだ重昌は、両手を塀に懸けて躍り込まんとした時、一丸その胸を貫いた。赤川源兵衛、小川又左衛門等左右を防いで居た家臣も同じく討死である。久兵衛重昌の死体を負って帰ろうとしたが、これも丸に当って斃れて果てた。伊藤半之丞、武田七郎左衛門等数名の士が決死の力戦の後、竹束《たけたば》に重昌を乗せて営に帰るを得た。重昌年五十一であった。
 石谷貞清も浅黄《あさぎ》に金の五の字を画《えが》いた指物見せて、二の丸近くに押しよせた。しかし崖は数丈の高さであり堀も亦至って深い。城兵また多く来襲して、貞清自らも肩を槍で衝かれた。家臣湯浅覚太夫がその城兵を突伏せたので、危く重囲を脱し得たが、従士は次々に斃れるばかりである。その処を赤い瓢箪《ひょうたん》の上に小熊を附けた馬印を押し立て、兵五百に先頭して、馳《か》け抜ける若武者がある。重昌の子|主水佐重矩《もんどのすけしげのり》である。父の弔合戦、
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