に、艶めかしい夫人の言葉に、青年は善良そうに、顔を染めて、苦笑しながら、首を振った。
「なら、私が恐いの?」
 姉か何かのような上手《うわて》の位置から、青年が顔を染めるのを、楽しい観物《みもの》ででもあるかのように、見おろしながら、しかも同時に媚を呈しながら、夫人が云った。
 青年は、ほのかに首を振って、
「どちらも、恐いわけではありませんが……」
「ねえ。一しょに行ってみない。佐竹の伯母さんとこへ訊ねて行くといえばいいでしょう。私、ここもいいけれど、観《み》るものも聞くものもないから退屈するのよ。前川と話しすることなんか何にもないし……」
 夫人は、いつも高慢な態度を持しているが、しかしこういう若い男性に微笑を見せるということだけは、また別なことであるらしかった。
 夫人としては、自分の媚態《びたい》が、男性にどんな影響を及ぼしそのために男性の眼に、どんな熱情が浮び、どんな不安が浮び、どんな哀願が浮ぶかを見ることが、楽しい刺戟であるらしかった。
 しかし、この青年は、夫人のそういう態度には、免疫になっているらしく、一も二もなく、支配されているわけではなかった。
「そろそろお帰りにな
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