に駆られて、ちょっと唇を触れただけでも、その怖しい報いが、踵《きびす》を接してやって来た。だから、懲《こ》り懲《ご》りしている。清浄に、潔く、心持の上でも、その野心の芽を摘み取っているのであるが、しかし自分があきらめているだけに、新子の周囲も、掃き浄《きよ》められたものであって、ほしかった。自分が足を踏み入れない聖域には、他人にも足を踏み入れてもらいたくなかった。だからその美沢という男は、早く美和子と結婚してほしかった。
「でも、その美沢さんという方は、いい方じゃないんですか。」と、前川がおだてるように云うと、
「そりゃとても。……新子姉さんだって、随分好きだったのよ。」いたずらっ子の美和子は、知ってか知らずにか、前川を更に心配させるような返事をした。

        九

 新子が、美沢という男を好きであったと聞かされて、前川には急に、自責の気持が起った。二人の相愛関係が破れて、美沢が、美和子の方へ走っている原因には、自分というものがあるのではないかと思ったからである。自分が、新子に必要以上に、親切にしたばかりでなく、あの思いがけない雷雨の中の出来事のために、二人の関係が崩れたので
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