く、なつかしい準之助の声がした。
「はア。下へ参ります。」いそいそと、思わず声も動作も、弾み上って、親しさと感謝で、明るく相好を崩した新子が、階段をかけ降りて、店の間《ま》に立っている準之助の側《そば》へ、近々と寄った。
「しばらく。どうです、少しはお気に召しましたか。」
「まあ、こんなに何から何まで、して頂いて……相すみません、軽井沢からは、いつお帰りになりました?」
「四、五日前ですよ。毎日ここへ寄っていたんですが、すっかり仕上ってからと思って、お電話しなかったんです。」
 イの一番のお客のように、二人は卓をはさんで、ソファに腰をおろした。準之助は大工に、
「電話は、やっぱり奥の方がいいね。四畳半の上り口の壁にとりつけてもらいたい。」
「へえ――。板だけでも、とりつけておきましょう。」
「まあ、電話まで……」新子は、包みきれぬうれしさで、笑顔でうつむいていた。下手なお礼をいうより、黙っていたかった。(大恩は謝せず)という古語がある。こんなに何から何まで、してもらっては、(ありがとう)などいう言葉を、何百遍くりかえしても足りないと、新子は思った。
「バーテンダーは、頼んでおきましたよ
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