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荒む心境
一
新子が、昨夜四谷の家に帰ったのは、十二時過ぎであったが、昼の酷暑に乾き切っている都会の空気は、夜になってもまだむしむしと暑く、殊に建てこんでいるこの裏街では、まだ縁台に出ている人もあり、戸を閉めない氷店もあるくらいで、新子の家も、今しがた美和子が帰って来たばかりらしく、家族は起きていた。
時ならぬ時の新子の不意の帰宅に、みんな不吉な想像しか湧かせなかったが、誰も新子に遠慮してその理由を深くは訊かなかった。
新子も、それを幸いに、妹と一しょに二階へ上ると、いち早く寝衣《ねまき》に着かえて、床の上に四肢をのばした。が、軽井沢の冷々した夜気にひきかえて、夜半過ぎても汗ばむほどの東京の暑さと、昼から引きつづいている胸のもだもだしさのため、容易に寝つかれず、幾度も寝がえりして、二時を聞くまでは、寝わずらっていたが、間もなく文字どおり、前後不覚な深い眠りに落ち、部屋に射し込む暑い午前の日ざしに、眼が覚めるまでは、夢も見ずに眠ってしまった。
眼覚めてしばらくは、頭の中に何もなかった。昨日《きのう》のことさえ跡形もなかった。ただしみじ
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