、駅に着いてみると、上りも下りもしばらく間のあるという待合室や、プラットフォームは、寂として人影もなく、準之助は今さらのように、心を抉《えぐ》るような悲しみに囚われてしまった。
 新子は、自分にとって最初の恋人である。
 むろん、先刻の行為は、穏当ではなかった。
 しかし、それが妻に分っているわけはない。妻に分っていることは、雷雨の中で、二人がどこかで会ったかもしれないということである。たったそれだけのことで、罪人をでも叩き出すように、新子を追い出すということが許せるだろうか。
 準之助は、他人を一歩も仮借しようとしない、夫人の増上慢に、……その無残な仕打に、良人として、いな一人の人間として、呪咀《じゅそ》の叫びを上げずにはいられなかった。
(俺は、キレイ事が好きだった。平安を愛した。だから、俺は、お前に辛抱したんだ! しかしこうまで、俺を侮辱するなら、俺も人間としての自由と、男性としてのわがままを発揮してやる。こんなことで、新子さんを俺から奪ったつもりでいるのか。俺は、今までの十倍もの強さで、新子さんを追ってやるぞ!)
 そんな憤《いきどお》りや決心が、彼の心を縦横に飛び違った。

前へ 次へ
全429ページ中195ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング