は、階段の所へ出て来ると、そこから近い台所の召使を呼んだ。
 太った身体をよちよちさせて、駈け上って来た旧い顔の女中に、もどかしげに、
「南條先生は、何時に発った!」とかぶりつくよう。
「先生は、七時半の汽車でお帰りになりましたんですが。ああ、まだ申し上げも致しませんでしたが、先生からお心づけを頂戴致しましたんで……」
「杉山いるかい。」
「ただ今奥さまのお伴で……」
「こまったな。旧道の何とか云うタクシ、あすこへ電話をかけて一台急にと云ってくれ。」
「はい。」
 もう、八時近い。しかし、先刻食事の時に聞いた自動車で行ったのなら、新子も汽車に乗り遅れて、駅でマゴマゴしているかもしれない、それがただ一つの心頼みで……。
 自分に、一言の伝言もなく去らなければならなかったとすれば、妻の態度がどんなに辛辣《しんらつ》であったかが想像される。恐らく、新子は自分とも再び会わないつもりで、この家を去ったのかも知れない。準之助は、失踪した愛人を、追いかける青年のように、焦慮し緊張していた。
 駅までの道を、思いきりスピードを出させたので、雨でこわれた路面のため、準之助の身体はいくども弾んだ。
 だが
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