ないわ、貴君にご挨拶もしないで。そうそう、さっきの自動車、あれで帰ったのかもしれないわ。」
 温柔な良人の顔を、馬鹿にしたような笑顔で見やった。
 先刻、自動車のエンジンや警笛が聞えた時、不思議がって訊くと、白ばくれてだまっていながら、今になって、と思うと、準之助氏は思わず、湧き上る怒《いかり》をじっとこらえたが、顔の表情は、あやしく歪んだ。
 そのゆがみ[#「ゆがみ」に傍点]を、夫人はすかさず見て、立ち上って、呼鈴《よびりん》を押すと、
「ご心配なら、女中を呼びますから、お訊きになるといいわ。」と、いった。
 女中を呼んできいてみたとて、新子がいるはずはない。すべてが、夫人の思惑どおりに行われたに違いない、新子にすぐ支度をするように命ずると、きっと女中を通じてこんな風にいったに違いなかった。
(お帰りになるんでしたら、子供達が食事をしている内に、帰って頂きたいんですの。子供達が貴女のお帰りになるのを知って、うるさくつきまとったりすると、ご迷惑でしょうから。主人にも私からよく申しておきますから、直接ご挨拶なさらなくとも、いいと思いますの。でも、強いてお会いになりたいんでしたら、お止めは
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