氏は、もう両袖をじっとりと濡らしている新子の手を取って、その落葉松の林の中に、見捨てられたように、建っている別荘の軒先にかけ込んだ。
 樹の細い梢など、あわれにも吹き千切られて、投槍のように飛び、樹の葉はクルクルと、不吉な紋様をえがきながら、舞い上り舞い落ちた。
 雨の水沫《しぶき》は、別荘の軒下にまで、容赦なく吹き込んで、雷はしきりなく鳴り渡って、絶え間なくあたりの空気を震わせ、嵐のシンフォニイは、今や最高潮に達していた。
 別荘の扉《ドア》を、ほとほとと叩いていた準之助氏は、にわかに元気な声をあげた。
「貸家だ、貸家だ。ここにハウス・ツー・レットとかいた紙が、剥がれている。これはちょうどいい。ちょっと失敬しましょう。ここじゃ水沫がたいへんだ。待っていらっしゃい! ここは開かないから、僕、裏へ廻って入口を見つけて来ますから。」と、雨の中へ飛び出して行った。
 新子は、夕立に悩まされながら、しかしそのために、夫人に対する感情の名残が、吹き飛ばされ、洗い去られたような気がした。そして、今までかなり遠い距離に立っていた準之助氏と、お友達か兄妹かのように、手を取り合って、自然の暴威と戦ってい
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