「些細《ささい》な誤りを訂正して下さる利益と、親の云うことにも間違いがあるという観念を植えつける害悪と、差し引きが付くものでしょうかしら……」それは、思いがけない鶴の一声だった。
「まだ、十二、三の子供なんですもの。仕度なんていう字を、どう書こうと介意《かまわ》ないと思いますの。だが母としての私の云うことを、あれが信じなくなったとすると、これは取り返しのつかない一大事じゃございませんかしら。」
「はあ、ごもっともで。」新子は、そう云わずにはいられなかった。
「貴女は、失礼でございますけれど家庭教育の本末を顛倒《てんとう》していらっしゃらないでしょうか。」
 新子は、先刻から、馬鹿馬鹿しくなり、こんなことで云い争っても、つまんないと思っていたが、こうまで夫人が、カサにかかって来る以上、もうこの仕事をよすほかはないと決心した。

        五

 綾子夫人は、指先で椅子の腕を軽く叩きながら、今までの態度を、急に無雑作な調子に崩すと、いった。
「第一貴女に、家庭教師としての嗜《たしな》みを知って頂きたいんですよ。」
 それは、もう露骨な侮蔑であった。新子は、夫人の物の云い方に半ばあ
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